「大栗裕と民俗仏教 - 《交響管弦楽のための組曲「雲水讃」》の成立と改訂 -」

[3/26 最後に補足あり]

ご報告が遅くなりましたが、今年度の大阪音大の研究紀要に表記論文を載せていただくことができました。音大紀要は今年からPDF版のみになっております。大学ホームページからダウンロードできます。

http://www.daion.ac.jp/about_ocm/publish/journal/index.html

2009年から大阪音大付属図書館の大栗文庫の資料を本格的に調べていますが、実はかなり早い段階から「雲水讃」という作品については、まとまったレポートを書かねばならない、「俗謡」の次はこれだ、と思っていました。ここには書いていませんでしたが、昨年・一昨年と京都の六斎念仏をあちこちで見学させていただいたり、ずっと水面下で準備を進めていたのでした。

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以前に書いたレポートで、音大に「大阪俗謡による幻想曲」の最初の草稿と思われる譜面があることをご報告しましたが、この「雲水讃」という作品も、成立・改訂経緯が複雑です。

幸いなことに、音大が持っている資料と大阪フィルなどが持っているこの曲の録音を照合して、改訂の経緯を、かなり克明にたどることができました。また、大栗文庫が所蔵するオープンリールテープのなかから、大栗裕自身が現地で収録したと思われる取材テープが見つかりました。

資料の整理、取材テープに収録されている吉祥院六斎念仏の調査などに時間がかかりましたが、なんとか目処がついたので、今回、結果をまとめさせていただきました。

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「雲水讃」は、2007年に大阪フィルが創立60周年記念の「関西の作曲家によるコンサート」で取り上げた作品でもあります。

実は私は、その4年前から大阪音大に非常勤で通っていたのですが、2007年に曲目解説を頼まれて調べるまで、この大学に大栗裕の資料がまとめて所蔵されていることを知りませんでした。私が今こんなことになってしまっている原点は、2007年の大フィル演奏会でございました。

今回のレポートでは、この演奏会の解説を書く際に大阪フィルで視聴させていただいた録音を、改めて詳しく調べることができました。

当時はほとんど何もわからないまま、通り一遍の解説を書くことしかできなかったので、ようやくこれで、ご恩返しができたような気がしております。

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その後、調べを進めるにつれて、この「雲水讃」という作品の周辺で本当に色々なことが起きていることがわかってきました。実は、今回書ききれなかったトピックもいくつかあります。

おそらく、

「大阪俗謡による幻想曲」について、草稿のことをレポートしたあとで、続編のような形で同時期(1956年前半)の他の作品との関係などをまとめたように、

「雲水讃」についても、いずれ、続編を書かねばならないだろうと思っています。

とりあえずここでは、「雲水讃」が、大阪フィルの定期演奏会という場で大栗裕が仏教への関心を明確に打ち出した節目の作品だったということを指摘しておきたいと思います。

《雲水讃》は念仏衆の六斎芸能と西国巡礼の御詠歌を組み合わせて、民俗芸能や民衆の生活と結びついた仏教、いわば民俗仏教を讃える形にまとめられている。しかしどうやら、作者の仏教への関心はそれだけに留まってはいない。この作品に先だち、大栗裕は、白隠禅師坐禅和讃を男声合唱で歌う創作日本舞踊《円》のための音楽(1958年)や、法華経の挿話にもとづく合唱曲《火宅》(1959年)を作曲しており、《雲水讃》の総譜が確定した3ヵ月後の1964年4月には京都女子大学教育学部教授に就任して、以後、1965年の合唱曲《歎異抄》を皮切りに浄土系伝統教団のための仏教洋楽をいくつも手がけることになる。作品の佇まいと、そこへ寄せる作者の志向・まなざしの若干の不一致が、この作品の過渡的な危うさであり、特別な魅力でもある。(以上、論文の結論部分より)

最近のエントリーで、やや唐突に、東大寺の修二会の話を延々と書きましたが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110322/p1)、大栗裕の作曲家としての歩みを考えるためには、戦後の日本の作曲家と仏教の関わりについて、ひととおり整理しておいたほうがよさそうなのです。

(これも私事になりますが、わたくしの父方の祖父は真宗(西本願寺派)の熱心な信者でした。鹿児島へ帰省すると、祖父は、朝夕に仏壇に向かって、「な〜むあ〜みだぁあんぶ」と大声で唱えていました。お酒が入ると(鹿児島ですからもちろん芋焼酎です)、小学生の私や妹に、「お釈迦様はなあ……」と、あれこれ延々と講釈していたものでした。

既に祖父は亡くなっていますが、西本願寺のために曲を書いた人のことを調べるのは、大幅に遅ればせではありますけれども、おじいちゃん孝行になっているのかもしれません……。)

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「雲水讃」は、木村吉宏先生が編曲した吹奏楽版が大阪音楽大学制作のCD「大栗裕の世界」(定価2,100円で購入可)に収録されています。

http://www.daion.ac.jp/about_ocm/publish/journal/index.html

木村先生がゲスト出演した昨年11月のNHK-FM「ブラスのひびき」でも、曲の一部が放送されました。

以下、放送時の木村先生のコメントより。(木村先生の大阪人らしい語り口調(語彙に大阪言葉が出てくるわけではないですが)は本当に味があるので、極力そのまま書き写してみました。[注:木村先生は尼崎のご出身とのことです。]お話の内容も、吹奏楽というジャンルの本質にさりげなく触れる発言ではないかと思います。)

(「雲水讃」はどういう曲なんでしょうか。)はい、あの、今までねえ、ええ、知られてる曲以外のもので、何かないかなと探せば、こういうものがあるということが見つかりましてですね、それで、あの、唯一残っていたのはオーケストラの音源のテープと、それから楽譜の、ちょっとバラバラになってたんですけども、コピーの……、あの、全部[は]残ってなかったですねえ。で、それで、ああ、これは、なんか楽譜見るかぎりはどっかのお経をそのまま採譜したものかなあ、という面が強かったんですよ。で、音源が見つかりましてですねえ、[…中略…]で、私は、じゃあこれを吹奏楽に直したらどうなるかなあ、と。で、まあ、お経とすれば、お経というのはブレスしますので、ええ、まあ、管楽器も……、弦楽器もブレスするんですけれども管楽器のほうはまあ、お客さんの前ではっきりしたブレスやりますので、ひょっとしたらうまく曲になるんかなあ、と思って、書き直してみたんです。

ちなみに、放送で流れた管弦楽版は、1961年の朝日放送による放送初演(森正指揮、大阪フィル)の全3楽章のうちの第1楽章の冒頭。京都の吉祥院六斎念仏の「発願」部分を忠実にオーケストラ編曲した箇所です。この楽章は1962年の演奏会初演時に破棄されて、現存するスコアは全2楽章(当初の第2楽章と第3楽章のみ)なのですが、今回のレポートには、失われた「幻の第1楽章」の冒頭部分の譜面を、大栗文庫が所蔵するパート譜から復元して掲載しています。

(放送では、吹奏楽版も一部が流れましたが、こちらは、初演時には第2楽章だった御詠歌を管弦楽編曲した楽章の冒頭です。)

京都の六斎念仏とは? 大栗裕がどうして御詠歌を? といったことは、私なりにわかったことをまとめてみましたので、論文のほうをご覧頂ければと思います。

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「大阪俗謡による幻想曲」は、大阪の獅子舞囃子やその周囲に置かれた大栗裕の自作主題が都節音階で、地車囃子を打ち鳴らすチャンチキのリズムへの対旋律(ホルン)は田舎節。時代的には、古く見積もって徳川後期以後かと思われる響き(三味線が似合いそうな上方の街場の響き)ですが、「雲水讃」は、律旋法で、朗々と声明や御詠歌を唱えます。

最終稿は「緩-急」の2楽章で、「俗謡」の序奏と主部が2つの楽章に拡張されたかのようですが、オーケストラのカラーが違いますし、モード(音の身振り・動き方)が「俗謡」とはちょっと違っているんです。(破棄されてしまった放送初演時の第1楽章の冒頭で、雄大な山野を思わせる音の広がりのなかで律旋を朗唱するところは、深井史郎の作曲した映画「大菩薩峠」のテーマ音楽と雰囲気がよく似ています。「大菩薩峠」はまさしく山の御詠歌の音楽ですが、ひょっとしたら大栗裕はこの映画音楽を知っていたのかもしれないし、あるいは、深井史郎と大栗裕の両方が参照したモデルがあったのか。偶然と思えないほど似ているなあ、と思っております。)

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船場生まれの大栗裕のイメージ(キャラ?)には「俗謡」がぴったりですが、朝比奈隆は、ひょっとすると、むしろ恰幅の良い「雲水讃」のほうを気に入っていたのではないかとも思われます。そして、この曲を書き上げたあとで、大栗裕は京都の女子大の先生になり、ホルン奏者を引退します。1955年の「赤い陣羽織」から9年経って、大栗裕は、オケマンの副業ではなく、胸を張って作曲家だと言えるポジションを得たわけです。「雲水讃」の少しあと、1963年の秋には辻久子のためにヴァイオリン協奏曲も書いていますが、作曲家として立つ覚悟のようなものは、むしろ、「雲水讃」のほうに、より強く出ているのではないかという気がします。

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[補足]

今回のレポートは、前半で「雲水讃」という作品の現存する楽譜・録音資料の状態を確認して、創作・改訂手順を推測しています。ややこしい話ではありますが、やっているときは、推理小説的な楽しみのある作業でもありました。

  • 1961年11月:全3楽章で放送初演
  • 1962年1月:全2楽章に改訂して演奏会初演(具体的には、冒頭楽章を破棄して、序奏とコーダを終楽章へ流用)
  • 1964年1月:終楽章の序奏を削除

……と、2段階で改訂されたらしい、というのが現在の結論です。

それじゃあなぜ、大栗裕は曲を2度にわたって改訂したのか?

演奏会初演時の文章には、初演の放送を聴いて、「やはり私自身色々と不満も残った」とあります。冒頭楽章を破棄しているので、この楽章が「弱い」と判断したのかもしれません。

それから、もしかすると演奏時間の問題があったのではないか、とも思われます。放送初演は朝日放送の30分枠のラジオ番組でした。曲の実演奏時間は約25分です。その後、朝比奈隆が大阪フィルの定期で取り上げて、そのあとヨーロッパに持っていくことになったわけですが、2時間のオーケストラ演奏会のレパートリーとして考えると、メイン曲としては短いし、コンチェルトの前にやるには長い。第1楽章(約10分)をカットすれば、コンチェルトや他の小品と組み合わせやすくなる、と考えたのかもしれません。

この段階では、もとの第1楽章の冒頭部分が、そっくりそのまま最終楽章の序奏へ流用されています。この部分は、京都の吉祥院六斎念仏の「発願」に相当します。放送初演時の第2楽章が繰り上がって第1楽章になったわけですが、こちらは御詠歌です。御詠歌の楽章が終わって、次の六斎念仏の楽章が「発願」ではじまるという構成です。

私は、この演奏会初演時の形が、一番バランス良くまとまっていると思っています。

ところが、1964年にこの「発願」の序奏がカットされてしまいます。

結果的に、最終稿では、本来、六斎念仏の最初に唱えるはずの「発願」の旋律が、曲の一番後ろに唐突に出てくることになってしまっています。本来、序奏の素材をコーダで回想する、いわば「係り結び」をねらっていたはずなので、序奏での前振りをなくしてしまうのは、構成上のバランスは、あまりよろしくない。なぜカットしたのか、理由はよくわかりません。

(ひょっとすると、この曲を国内外で繰り返し指揮した朝比奈隆の発案なのではないか。ゆったりした御詠歌をやったあとで、さらにアンダンテの序奏を経て、しかもメリスマ満載で気を遣うフルート旋律を吹いてからアレグロの主部に入るのはまだるっこしい。御詠歌から、スパッと一気にアレグロへ突入したほうが演奏効果があがる。そうした演奏上の判断がカットの理由ではないかと私は想像しているのですが、これといった証拠は何もありません。

現存するスコアには序奏がなく、しかも現行スコアの終楽章の冒頭には、「Jan. 1964」と記入されています。そして、序奏のない終楽章のパート譜が(ロゴマークから見て他のパート譜よりも新しいと思われる紙を使って)作成されています。ですから、終楽章の序奏は、譜面が紛失したのではなく、意図をもってカットされたと判断せざるを得ないのですが、この最終稿の録音や演奏プログラム等は見つかっていません。)

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論文の後半では、曲の素材について書いていますが、京都の六斎念仏については、この論文を出したあとで判明したことがいくつかあります。また、大栗裕の御詠歌への思い入れについては、調べきれるかどうか、まだ見通しは立っていませんが、この曲だけのことでなく、気になっていることが実はあります。このあたりは「続編」の課題ということになるかもしれません。