大栗裕「音楽と学生と私」と私

さっき気づいたのですが、「雲水讃」論文(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110325/p1)で名前を挙げた合唱曲「歎異抄」の初演は1965年12月12日。まったくどうでもいいことなのですが、わたくしが生まれた次の日にお披露目されたようです。龍谷混声合唱団の第20回定期演奏会です。

大栗裕は1964年に京都女子大の教授になって、学校の女声合唱団の顧問をやっていました。京都女子大女声合唱団は、大栗裕が赴任する少し前から独自の定期演奏会を立ち上げたようですが、長らく、龍谷大学男声合唱団と合同で、龍谷混声合唱団の名前での活動を続けていました。(大栗裕は、最晩年には、龍谷混声の指揮者を務めたこともあります。)

また、これはマンドリンの世界では有名なことらしいのですが、1958年頃から亡くなるまで、彼は技術顧問として、関西学院大学マンドリン・クラブに関わっていました。

つい最近になって、大栗裕がこの2つの大学クラブとの関わりを『厚生補導』に書いているのを知りました(97号、1974年、41-44頁)。

http://157.1.40.181/naid/40001226607

飄々と達観しているようでいながら、いつしか騒動に巻き込まれてしまって、偉そうなことは言わないのだけれども、音楽に対しては熱い。大栗裕の人となりがよくわかる文章だと思います。『厚生補導』は、『大学と学生』の前身誌で、大学図書館では持っているところが多いとのことなので、興味のある方は是非。

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そしてここから先は、「私」以外のすべての皆さまにとっては、ここまでに書いたこと以上にまったくどうでもいいことですが、

先日、「大栗裕は、「雲水讃」の総譜を確定して、京女の教授になったとき、何歳だったのだろう」と思いまして、計算してみたら、1918年生まれで、誕生日は7月なので、1964年の春先には今のわたくしと同じ満45歳だったようです。

数式としてはおかしな表記になりますが、「1918 - 1964 = 1965 - 2011」ということで、「雲水讃」のレポートをまとめるのがこのタイミングになったのは、何かの巡り合わせではあるのでしょうか。

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一介の音楽評論家が偉そうにいうことではないとは思いますけれど、(あるいは、学者の世界に入れなかったシロウトにかぎって、いつまでも青臭いんだよね、ということに過ぎないのだろうとは思いますけれども、)

私は、自分が生まれたあとの時代=「実感」を伴う広い意味での「今」、自分が生まれる前の時代=「実感」のない他人事、というような実感ベースの遠近法を学問に安易に持ち込むのはよくないのだろうと思っています。「実感」を担保して「共感」を得ようとする遠近法の濫用は、慎むべきなのだろうと思っています。

(いわゆる「カルスタ」は、そういう傲慢を解禁する傾向があるように思えて、そこが信用できないのです。時節柄、不謹慎に響いてしまうかもしれませんが、格言風にいうと、実感ベースの遠近法は、死者(歴史)に対する生者の傲慢かもしれない、と畏れるのです。)

生きている「実感」はかけがえのないものですし、レポートをひとつまとめるのに、どれだけたくさんの方のご厚意を得て、たくさんの方のお世話になったかということは、しっかり「実感」しているつもりですが、

同時に、「実感」の担保を積まない時空へ情報を登録するのだ、という心意気なしに書いたようなものを、論文と呼んではいけないんじゃないだろうか、とも思っています。(自分の作文が本当に世間様に登録されるかどうかは、書いた本人が決めることではないので、わかりませんが。)

大栗裕の「歎異抄」からあとの作品は、私自身がこの世に生存してしまっている時期の事柄ですから、「歴史」と言うには近すぎるところがあるのかもしれませんが、たぶん、ここからが正念場なのでしょうね。