大栗裕「挽歌(高丘黒光先生の御魂に捧げる)」と「吹奏楽のためのディベルティメント」(フィルハーモニック・ウインズ大阪第10回記念定期演奏会)

本日はフィルハーモニック・ウインズ大阪の第10回記念定期演奏会。大栗裕が天商バンドの恩師、高丘黒光に捧げた1974年の曲「挽歌」を聴かせていただくことができました。

お弔いの音楽を洋楽器で書くときには、葬送行進曲であったり、エレジーであったりというように、一定の「型」がありますが、そういう体裁にこだわることなく、日本音階風の旋律で亡くなった恩師への気持ちを込めた曲でした。小さな音楽ですけれど、こういう風に書くことができるのは、作曲家の本物の筆力と言ってよいのではないか、と思いました。

他に1968年の「ディベルティメント」、1973年の「神話」、アンコールで1976年の「バーレスク」が演奏されましたが、大栗裕は60年代に色々なスタイルに挑戦しています。たとえば、「ディベルティメント」の第2部は大栗裕には本当に珍しいブギやスウィングのリズムで書かれています。(ちょっと無理して、テレながら若者に混ざろうとしている感じがします。)最初にそういう模索と挑戦の60年代の曲があって、そのあとで「挽歌」、「神話」、「バーレスク」を聴くと、70年代になってから、大栗裕は突き抜けて自由闊達に書けるようになったんだな、と改めて思いました。(それにしても、本日の「神話」は、こんな大作だったか、とびっくりするような風格のある演奏でしたね。)

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このところ、わたくしは柴田南雄について嫌味なことばかり書いていますが、70年代以後のシアター・ピースをたくさん書いて、ワールドワイドな視野をもつ民族音楽学者のイメージを彼の過去に遡ってあてはめるのは、悪しき「神格化」だと思っています。実際に書いた物を読むと、了見が狭かったり、時代の風潮に迎合しているわけではないだろうけれども、半ば本気の思いこみや意識的・無意識的な思惑がらみで発言・行動していると思われるところが見え隠れするように思います。インテリさんですから、露骨に強引なことをしたり、人前で自制の効かない醜態を晒すようなことはないけれど、柴田南雄だって人間ですから、最初からすべてを見通していたわけではなく、徐々に軌道修正したり、考えが変わったり、深まったり、広がったりしながらああなったのだと思います。

大栗裕(1918-1982)と柴田南雄(1916-1996)は2歳違いの同世代です。生まれも経歴も作風もかなり違いますけれど、年代を追って見ていくと、二人とも70年代までは(特に50年代60年代は)、周囲とのしがらみや関係性でやっていたと思われる仕事の多くて、ようやく70年代の還暦前後になってから、やりたくてやっている、書きたくて書いたのだろうと思わせられる作品が出てくる人、という印象を私は持っています。(解脱した先は、大栗裕の仏教と、柴田南雄のカトリックというように対照的ですが。)

世代論というのは、話を単純に図式化する危険な見方ではありますけれど、第二次大戦の直前に成人した「戦中派」で、難しい青春時代を過ごしたあとで、戦後の猫の目のように状況が変わるなかで中年期・壮年期を迎えて、何らかの「立場・役割」を求められた面があったのではないでしょうか。二人とも、70年代以前の仕事は、読んだり聴いたりしたときに、間違ってはいないのだけれども居心地の悪い感触が残って、そういうぐらつきが70年代になってようやく消えるように思うのです。(70年代以後のことは、私自身の知っている時代だから実感を伴って考えることができるところがあって、こちら側のバイアスがかかっている可能性はありますが。)

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大栗裕には、「ディベルティメント」が3曲あってややこしいので、以前に書いたことと多少重複しますが、もう一度整理してみます。

管楽器と打楽器のためのディベルティメント第1番(「小組曲」)

1956年作曲、全3楽章。編成はFl, Ob, Cl I&II, Fg, Tp, Tb, Percussion。8人の奏者による合奏曲で、初演時・再演時は指揮者を置いていました。「小組曲」の題で初演されて、1957年に朝比奈隆がヨーロッパへ持っていったときに、欧文タイトルを「Divertimento」としたようです(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101112/p1)。以来、本人も「ディベルティメント」と認識していたと思われます。

一部の作品表では、「1956年作曲の小組曲」と「1958年作曲のディベルティメント」が別々に記載されてきましたが、これはタイトルの揺れと、作曲者の記憶違いが複合した誤解で、実際には、「小組曲」と「ディベルティメント第1番」は同じ曲で、作曲年は1956年です。

管楽器と打楽器のためのディベルティメント第2番「三つの像」

1963年作曲、全3楽章。編成はFl, Ob, Cl I&II, Fg, Tp, Tb, Percussion(第1番と同じ)。外山雄三の指揮で初演されました(「大阪フィルのメンバーによる室内楽の夕」1963年10月1日、毎日国際サロン)。

同じ演奏会で、外山雄三の「クラリネットと弦楽合奏のための幻想曲」が、こちらは大栗裕の指揮で初演されています。プログラムを見ると、ほかに、ストラヴィンスキーの「管楽器のためのシンフォニーズ」(「本邦初演」の記載あり)などが演奏されています。

吹奏楽のためのディベルティメント

1968年作曲、全2楽章。通常の吹奏楽の編成です。これが、本日演奏された曲。同年の大阪音楽大学吹奏楽団第2回定期演奏会(1969年6月30日、大阪厚生年金会館中ホール)のために作曲されて、辻井清幸の指揮で初演。2006年3月19日にNHK大阪ホールで行われた大阪音楽大学創立90周年記念演奏会のひとつ、「演奏と映像でたどる関西吹奏楽150年 -- 幕末鼓笛隊からシンフォニック・バンドへ --」でも演奏されて、このときの指揮者はロジェ・ブートリーでした。他にどこかで再演されたことがあるのかどうかは不明です。

学生のために書いたというと平易な練習曲のようですが、「音大生のため」というところがポイントだと思います。3年前の1965年秋に作曲されたコンクール課題曲「小狂詩曲」や同年6月5日西宮球場の「第5回2000人の吹奏楽」(現「3000人の吹奏楽」)で初演された「日本のあゆみ」と比較するとはっきりしますが、アマチュア・バンドを想定した曲では使わないような音を盛り込んで、同時期の大栗裕のオペラやオーケストラ曲にやや近い作風になっています。

自筆譜は、現在3曲とも大阪音楽大学付属図書館の大栗文庫が所蔵しています。(「三つの像」以外は、スコアの他にパート譜もあります。)

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ところで、今日の「オオサカン」の若い人たちの演奏会を聴きながら、大栗裕の代表作が吹奏楽曲だというのは、どういうことだろう、と改めて少し考え込んでしまいました。

この作品には、かくかくしかじかの来歴があって、音楽史的にこういう意義があるのだ、という能書きを付けることはできますし、楽譜や録音を立派に表装して、「戦後大阪を代表する作曲家」然とした体裁を整えることも、頑張ればできないことではないと思いますし、必要な整理作業はやっていこうと考えていますが、

でも、こうやって吹奏楽の場でアルフレッド・リードやアンコールのマーチと並べて演奏され続けるのがいいんじゃないか、という気もします。そしてこういう場には、もったいぶった蘊蓄は邪魔かもしれないとも思うのでした。

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この感じは、地域のお祭りと、ちょっと似ているような気がします。

いわゆる民俗芸能のなかには、しかるべき理論や視点にあてはめると、極めて貴重・重要な位置を占めているとみることができるものがあって、詳細に記録されたり、丁重に「保護」されたり、立派な文化財指定を受けたりするものがあるわけですが(そして今夜のNHkでは「世界遺産」の番組で、マラケシュの広場の大道芸が世界遺産に指定されているのだと紹介していましたが)、実際にそれをやっているのは普通の人たちで、そうした「重要性」を認められることもなく続いているお隣の町や地域の行事と、当事者の意識は別に対して違わなかったりすることもあるわけですよね。

柴田南雄のシアター・ピースの場合は、そういった観察者の都合と、実際にやっている皆さんの都合がかみ合ったりかみ合わなかったりする関係性をも(やり方があれで本当によかったのか、私は納得していないところもありますけれど)メタムジーク風に作品・作曲に取り込んでしまっているところがあって、都会の学者・作曲家がフォークロアへ介入する奇妙な構造に自覚的なのだというシグナルを作品自体が発しています。

大栗裕の場合は、吹奏楽にもマンドリン・オーケストラにも、邦楽や日本舞踊のご社中にも、仏教教団にも、オーケストラにも歌劇団にも、タカラヅカにも放送局にも、さっと譜面を書いてそのまま渡して、柴田南雄のように厳重で慎重な保安・管理システムを一切構築していません。いわば、垂れ流しです。

でも、いいかげんなようでいながら、なんとなく、それが稼働して残っていたりするんですよね。なかには、埃を被って、倉庫の奥に積んであったりする譜面もあるでしょうけれど、ちょっと補修したら、それなりに機能しそうな感じにはなっています。

そしてそれぞれの団体は、今も現役ですから、別に作曲家様が厳重なシステム設計をしなくても、そういう音楽にアクセスしようと思ったら、自ずとそこへ行く人間が何かを感じたり、考えたりすることになるようです。おそらく、大栗裕自身も、無節操で厚顔無恥に音楽を「垂れ流し」ていたわけではなくて、昔の大阪でお商売をしていた家の跡取りですから、それぞれの場や団体と、常識や礼儀をわきまえたおつきあいをしていたのだろうと思うのです。結果的に、大栗裕のあとを追いかけていくと、そういう昔からの街場の人付き合いみたいなものを、こちらが反復・追体験するようなことになりそうなんですよね。

学者肌の「書斎派」の人とは全然やり方が違って、ほとんど正反対かもしれませんけれど、やっぱり柴田南雄と大栗裕(そして伊福部昭)は同じ時代・同じ世代の人で、似たようなところに気遣いや引っかかりを抱えながら音楽をやっていたような気がします。その引っかかりを、作品の中にシステムとして回収しようとするか、なりゆきに任せるか(あるいは、特撮映画のテーマを箏曲に使い回しするような掟破りで剛胆に掻き回すのか)、具体的な対処法は違いますけれど、和楽器を「素材」として作曲に組み込む、みたいにスッキリ割り切ることができないところが、大正生まれと昭和生まれの違いなのかもしれませんね。

(大栗裕の「挽歌」は、1974年の哀悼であると同時に、昭和6年の天王寺の学校へ通う中学生に戻ってつぶやいているような感じが入っているようにも思えたのです。)

大栗裕の仏教、柴田南雄のカトリック、伊福部昭(1914-2006)の神道というように背負っている世界観が違って、出身地は大阪・東京・北海道と日本の東西に広がって、吹奏楽・合唱・特撮映画というように昭和期の音楽の大衆化(洋楽の場合はせいぜい中間層への浸透止まりかとは思いますが)への対応の力点が違っているので、年齢が2歳ずつ違う三人を並べて対照しながら昭和の音楽を振り返る図式があっていいかもしれません。