「ザ・シンフォニーホール」譲渡に関する基本合意書の締結について(ABCからのお知らせ)

朝日放送の広報ページ(http://asahi.co.jp/publicity/)にPDFが上がっていますね。

http://asahi.co.jp/publicity/pdf/20120329.pdf

ザ・シンフォニーホールを滋慶学園グループへ譲渡。

今後、譲渡契約の締結を経て同ホールの所有権は本年9月末をもって(株)滋慶に移転する予定ですが、同社との合意により、2013年末まで朝日放送が運営を続けます。既に発表されている公演等への影響はございません。

シンフォニーホールのオープンは1982年10月なので、2012年9月末で所有権移転だとすると、満30年ということになりますね。

(大栗裕は1982年4月に亡くなっているので、このホールを知ることができませんでした。没後30年の記念演奏会の会場がここでよかったかも。2014年以後ホールがどうなるのか、まだ不明ですが、もしかすると、大栗裕本人が足を踏み入れることのできなかった場所で盛大に「大栗裕まつり」ができる最初で最後のチャンスになるかもしれませんから……。)

[追記:(株)滋慶は「ホールの名称をはじめ、歴史や伝統を尊重しながら、安定的な運営に努力する」とコメントしているようです。http://webnews.asahi.co.jp/abc_2_007_20120329008.html ]

朝日新聞社のフェスティバルホールは、1913年4月にリニューアルオープン予定。

関連会社の音楽ホールを手放すのと入れ替わりで本社の大ホールが稼働するのは、朝日会館を閉めて、1958年にオーナー村山家の肝煎りで初代フェスティバルホール(&大阪国際フェスティバル)を立ち上げた過去の歴史が思い出されます。現在わたしたちが「昭和の大阪には朝日会館というハイブロウなホールがあったらしいよ」と、なかなか実感を抱きにくい昔話をするように、「平成の大阪にはザ・シンフォニーホールというクラシック専用ホールがあったんだよ」と語ることになるのでしょうか?

逆に、朝日会館が閉鎖と決まったときに当時の関西のクラシックファンの思いは、こんな風だったのかなあ、と考えたりもします。

冷静に考えると、大阪のもうちょっと便利のよい場所(環状線内)に新しいホールがいくつかできつつあるので、福島のホールを手放すのは潮時なのかなあ、と思ったりもしますが、ニュースを聞いた瞬間に、思った以上に動揺してしまいました。^^;;

なんだかんだいいつつ、わたくしも、自分のコアに近いところに「バブリーな80年代」成分があったのかなあ、と我ながらちょっと驚いております。

      • -

ただし、具体的に思い出してみると、大学時代にチェリビダッケを聴いたり、オペラを観に行ったのはフェスティバルホールですし、シンフォニーホールの在阪オーケストラの定期に仕事で通うようになったのはここ7、8年のことです。「生涯の思い出」と言える公演としてここで何を聴いたか、と考えると、案外、これというものがなかったりして……。

朝比奈隆が亡くなったあとから大阪の演奏会評の仕事をはじめている私は、ここでも、乗り遅れているようです。

      • -

そしてそんな自分のコンサート経験に開き直るわけではないですが、シンフォニーホールの30年というのは、関西の洋楽史、おおげさに言うと日本の150年の洋楽史を考えた場合に、どの程度決定的な場面がここで演じられたかというと、案外、微妙かも知れないですね。

カラヤンや朝比奈隆などの「巨匠世代」にとっては最後の時期で、もはや指揮者やオーケストラの来日公演自体が「事件」だった時代ではなくなっていたように思いますし、古楽系以後の人たちにとっては、(コンツェントゥス・ムジクスやドイツ・カンマーフィルの公演がいずみホールだったように)シンフォニーはやや大きく、モダン・オーケストラに特化しすぎた空間かもしれません。(だから大植英次・大阪フィルのホームグランドがここだったのはとても良かった。大阪フィルが朝比奈隆時代のフェスティバルホールから気分を一新して定期がシンフォニーホールでの2日制になり、大植さんの演奏スタイルにも、たっぷりした残響は不可欠だったと思います。)

器楽奏者で言っても、ポリーニ、ブレンデル、クレーメル、アルバン・ベルクQといった既にビッグネームである人たちがリサイタルをやる場所だったような気がします。(そして今では、そういう公演のための場所は、京都北山のコンサートホールとか、西宮の兵庫芸文センターなどがあり、関西でザ・シンフォニーホールが唯一無二というわけでもないんですよね。)

洋楽輸入の最先端のショーケース(戦前の朝日会館がそうだったような)というよりも、シンフォニーホールは、安定した人気と集客を確保できる公演・シリーズを行う場所だったように思います。そして現状がそういう位置づけになっているからこそ、朝日は、拠点を福島から肥後橋(フェスティバルホール)へ戻しても大丈夫だし、むしろそのほうがいいと判断したのかもしれませんね。

日本のクラシック音楽にとっての80年代って何だったんでしょう。これもまた、いわゆる「短い20世紀」の残務整理のひとつということになるのでしょうか?

このホールの建物、会場の雰囲気は好きなんですけどね。