compositio

(ちなみに、そもそも西洋音楽において、composition(構成)という後が用いられるようになったのは、いつ頃のことなのだろうか? そして、音楽が「建築」などのイメージで語られるようになったのも、いつ頃からなのだろう? たぶん、そうしたことに関する研究はあるだろうから、ぜひとも読んでみたいものだ)

「composition=作曲」か? (2) ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

音楽論で、「opus(もの)」とか「compositio(組み立てる)」とか、音を操作可能な素材であるかのように語る発想が出てきたのはルネサンス期で、音楽において制作論 musica poetica を科目として立てたのはカントールたちだった、という議論が戦後西ドイツでさかんになされて、1990年頃には、音楽学専攻のラテン語講読演習で、そのあたりの文献を博士課程の学生がチューターになって、チイチイパッパな感じにやる状態になっているのを留学して目撃した。

ラテン語取らないとMagisterすら貰えないカリキュラムになっているようだったし、あれは、本格的な古典文学を読みこなせないボンクラ大学生を卒業させるための一種の救済策として、音楽学講座でラテン語講読を開設していたのだと思う。日本の芸術系大学でも教職のためにひととおりの科目が開設されているのにちょっと似ている。

ということは、compositio概念の成立を知りたいときにどのあたりを見ればいいかということは、国学が「ますらおぶり」の賀茂真淵や「もののあはれ」の本居宣長あたりの歌論からはじまった、とか、幽玄は世阿弥、というのと同じ程度に常識なのだろうと思う。

常識ゆえの粗雑さ・単純化の危険はあるだろうとは思いますが、古典語文献の時代へ遡らなければならないだろうことは間違いなくて、「バッハ以後」だけで西洋音楽を考えていると、言文一致の近代文学だけで日本の文藝を語ろうとするようなことになるのだと思っております。「源氏物語」を知らないで国文学はまずいだろうとか、そういう感じ。

春はあけぼの。いずれの御時にか、男ありけり。