- 作者: 村田純一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/07/17
- メディア: 単行本
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「中世スコラ哲学がアリストテレスを取り入れたときに、音楽理論(musica theoretica)と音楽実践(musica practica)だけが学科として立てられて、音楽制作(musica poetica)=作曲という活動が認知されるのは、美術が藝術として認知されるよりさらに遅れて、ほぼバロックになってからだ。」
という説明をこれまでに何度も見かけたのですが、村田純一『技術の哲学』でのアリストテレス倫理学の説明を読んで、やっと事情を呑み込めたような気がしました。
- a. テオリア(観想) 対象:他ではありえない必然的存在 知の形態:エピステーメ(学知)
- b. プラクシス 対象:他でありうる選択意志の対象
- 狭義のプラクシス(行為) 対象:目的を内在 知の形態:プロネーシス(賢慮)
- ポイエーシス(製作) 対象:目的が外在 知の形態:テクネー(技術)
『技術の哲学』にはこういう表が出てきます。
従来私が目にした解説書では、製作(ポイエーシス)を実践(プラクシス)より上位に置く近代の観念システムを無批判の前提にして、中世において、現実の音楽活動(礼拝の歌など)は、プラクシス「でしかなかった」と説明されていました。中世社会は、音楽に製作(という価値ある営為)を認めていなかったのだ、といういい方です。
でも、どうやらそうではなくて、アリストテレスの目的論的と呼ばれる概念体系では、製作は「行為そのものの外部に目的がある」(=行為がその目的にとっての手段と化している)とみなされ、一方、政治や善行は、「行為そのものを目的としている」とされたらしい。そして前者より後者、製作より実践が上位に置かれていたようです。たぶん、奴隷や職人を従えた市民や貴族(いわゆる「労働」をしない階層)のための哲学だから、こういうことになるのでしょう。
(『技術の哲学』には、数学を重視したプラトンにとって技術の範例は厳密な設計図を準備する建築家だったのに対して、生物学・自然学に重きを置いたアリストテレスは、雄が雌に精子を注入して新たな個体を生み出す生殖行為を、職人の、道具を用いて家の形相を材料のなかに現実化する技術過程のモデルと考えていた、というような説明も出てきます。やるときゃやらなきゃダメなんだよ、みたいな思想なんですね、根本のところで(笑)。それが実践哲学。)
そうして、必然の法則を思索することは、さらに上に置かれるのですね。
音楽にこの枠組みを適応してみますと、
数比論が天体の運行などの世界秩序と響き合うように構想されているmusica theoreticaは、まさしく、必然の法則に思いを巡らすテオリアですし、有り難い文言をしかるべき時・場所でしかるべき人物が唱え、歌うことは、政治と並び立つような意味での「行為=プラクシス」なんですね。
人々に有り難い教えを説教する行為者のほうが、演台を製作する職人よりも偉い、というような意味で、歌う修道士は、その歌を作る者より偉い。
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そういえばバロック期になって、musica poeticaということがドイツなどで言われるようになっても、そういうことをやる教会音楽家はKantorと呼ばれていたわけですから、現実の職務としては歌や楽曲を「作る」作業のウェイトが大きくなっても、彼らは、社会的には「歌う人」だったんですよね。音楽の「作り方」が長らく弁論術の枠組みで概念化されていたのも、行為者を製作者より上位に置くヒエラルキーゆえなのかもしれませんね。
ハイドンやベートーヴェンが出てきて、公開コンサートという新種の興行形態のなかでは、楽曲を設計する「作者」の地位が飛躍的に向上しますが、それでも、指揮者というパフォーマンスの現場を取り仕切る作者の代理人のほうが、実際の作者以上の拍手喝采を浴びたりしますし、
劇場へ行けば、相変わらず、歌手のほうが台本作家や作曲家より「偉い」ですよね。
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考えてみれば、上演藝術では、自らの声と身体をさらす行為者のほうが、上演の段取りを設計する製作スタッフより偉いのは、むしろ「自然」な気がしますし、このヒエラルキーが逆転して、「作者」が君臨する文化というのは、相当に「人工的」なのかもしれません。
小説や美術のように「もの」がそこに完成品として差し出されるわけでもなく、音楽の「作者」の地位は脆弱で、ロマン主義のような価値転倒のアイロニカルな屁理屈がなければ、作曲家や音楽作品を有り難がる文化は生まれなかったかもしれませんね。
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私自身は、もともと作曲家を「偉い」存在として崇拝しているつもりはなくて、世間が尊敬しようが蔑もうが、音楽を「製作」する人たちに興味がある、というだけのことなので別にそれで一向にかまわないですが。
(だって、世間での地位が疑わしいからといって見捨てるのは、なんだか、薄情で軽薄じゃないですか)
たぶん、アリストテレス風の実践哲学というのは、いわゆる帝王学と親和性が高いんだろうと思います。政治家のほうが職人よりも偉い世界観であって、雄弁家が君臨する社会では、職人はひっそりと生きていくしかない。
ものを作る人が尊敬される社会というのは、一時期の日本がそういうスローガンを掲げて「高度成長」を成し遂げたり、その頃には「職人の国ドイツ」という表象があったりもしましたが、むしろ、かなり珍しいのかもしれませんね。
ポピュラー音楽研究に将来性を期待する若い人たちが、製作者より「ユーザー」の立場を重視して、いわゆる大陸合理論よりも英米経験論のプラグマティズムを良しとするのは、情報社会における「文化貴族」となることを目指して、21世紀の帝王学をそこに見ているのかもしれませんね。クラシック音楽はダサい、ポピュラー音楽はモテる、というのは一昔前の牧歌的な風景で、今、若い知識人が追い求めているのは「勝利と栄光への道としてのポピュラー・カルチャー論」であるような気がします。すごい時代になったものです。^^;;
1960年生まれの佐藤卓己先生が50歳を迎えて「ためいきの歴史学者でありたい」という言い方をする時代ですから、昭和40年生まれも、そろそろ「おやじ」から「老人」へ転進する準備をしなければならないのでしょうか?
- 作者: 佐藤卓己
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- 発売日: 2009/05/26
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