門外漢な読書三題、文楽のこと・大正大震災のこと・ジャポニズムのこと

歌舞伎の歴史は、素人が楽しみながら読めるものが色々ありますが、

絵で読む歌舞伎の歴史

絵で読む歌舞伎の歴史

こういうものに相当する文楽の本はあるのでしょうか?

とりあえず同じ服部先生監修のこの本で、人形浄瑠璃の発生から現在まで、ひととおりの流れを追うことができそうではありました。

日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇

日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇

若き日の武智鉄二が通った四ツ橋の文楽座は、昭和になって松竹が興行するようになってからできた小屋で、通し狂言(東京の国立劇場はこれが基本)ではなく見どころだけを並べた国立文楽劇場のやり方(「見取り」と言うらしい)の原点もここと考えていいみたい。この小屋ができた前後に今日の文楽研究の出発点になるような書物がいくつも出たりして、どうやら、昭和の四ツ橋文楽座が、文楽への近代的アプローチの原点のようですね。

そして、竹本義太夫や近松門左衛門が登場して、竹本座と豊竹座が競って今日の「古典」が出揃う経緯と、昭和の四ツ橋文楽座から現在までのところは比較的はっきりしたイメージをつかめるのですが、その間がややこしそうですね。

実際には徳川後期に、大坂ではやっていけなくなった太夫や人形遣いが各地へ散って、それぞれの地域に人形浄瑠璃を伝えたり、地元にそれまでにあった人形劇と融合したり、さらに大きな背景がありそうな気がして、そのなかでみたときに、大坂は、伝承が途切れることはなかったにしても、どういう状態だったのか。など、色々知りたいと思いました。

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で、そんな昭和の四ツ橋文楽座ができる前、大正的なものをリセットしたとされる関東の大地震が「関東大震災」ではなく、「大正大震災」と呼ばれていたと見ることで、忘れられた事情を掘り起こせるのではないか、というのがこの本。

大正大震災 ─ 忘却された断層

大正大震災 ─ 忘却された断層

著者の解釈では、「大正大震災」という言葉には、あの大地震を関東だけの問題ととらえるのではなく、日本全体の問題と捉えるべきだ、の含みがあった、ということになるようです。

言葉だけの問題で、引用されている発言などからすると、「大正大震災」という言葉は、むしろ、関東は過去に何度も震災に見舞われている、という認識があって、「(関東の)安政大震災」などを踏まえた上での「(関東の)大正大震災」と呼ばれたと解釈できそうな気もしたのですが……、

ともあれ、「大正大震災」のあと大阪遷都論が出たりもして、ちょうど日蝕で太陽の光が弱まることでその背後の星が見えてくるように、実は近代になっても、大阪発で全国へ広まった文化・風俗が色々ある、ということを再認識するきっかけになった、というだったりしたようです。

デリケートな話題なので、大正の大震災のあれこれを、平成の大震災に安直にあてはめて何かを言うのは慎みたいと思いますが。

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ジャポニスム―幻想の日本

ジャポニスム―幻想の日本

日本の浮世絵がフランス印象派に与えた影響を「ジャポニスム」と呼ぶとき、これは、日本の文物などを画面に散りばめる日本趣味ではなく(そういう日本趣味は「ジャポネズリー」と言うようです、そのレヴェルの異国趣味であれば、中国趣味シノワズリーというのもあった)、自然への視線とか、大胆な構図とか、そういう、近代絵画への歩みに対する貢献(と評価できる側面)を指すことになっているらしい。中立的な記述概念ではなく、価値付け込みの用語なんですね。

一方、近代音楽への歩みに日本の音楽が同様の刺激を与えた、とまでは言えそうになくて、音楽における印象派以後への影響ということでは、東アジアだとガムラン、あとは、アフリカ系黒人のリズム(大雑把に「ジャズ」と呼ばれたような)なのかなあ、と思いますが、

西洋絵画の視線を更新することに貢献した「浮世絵的なもの」が、舞台の視覚表現に影響を与えた可能性はありそうで、そういう切り口からオペラのジャポニスムを整理することは、ひょっとするとできるのかなあ、と思いました。

それから、本書のモネ「ラ・ジャポネーズ」が生まれたコンテクストを整理する記述は素晴らしいと思いますが、日本の舞踊は、結構早くから海外へ人が行っていますし、これも舞台関係で、何かありそうですね。

日本の舞台人の立ち姿は、西洋でどのように見えている(いた)のか?

そのあたりを整理すると、三浦環にはじまる「蝶々さん歌手」の系譜とか、あるいは、戦後になって團伊玖磨が「夕鶴」を海外へ持って行けると考えた背景について、何か言えそうな気がします。

「夕鶴」のつうの鶴のような日本女性の立ち姿は「絵になる」はずだ、という判断があったに違いないと思います。そしてそれは、お父さんが美術史家であったような日本の中流階級の人であるところの團伊玖磨の審美眼であり、「西洋人が日本をこう見ているに違いない」という屈折した一種の国際感覚なのだと思いますが、本当にそれが、この作品を海外に持っていったときに機能したのか、それとも、日本人がこれはいける、と勝手に思っていただけのことだったのか?

ややこしく屈折しているような、でも、やってみたらきれいに読み解けそうな、誰かが調べて欲しい話のような気がするのですが、どうでしょう。戦後日本の「夕鶴」幻想。