複数がデフォルトの音楽

大久保賢がシューマンのピアノ協奏曲の終楽章を譜面通りの拍子で指揮者が振るのに驚いているが、彼は、「道化師の朝の歌」の出だしを3/2拍子で指揮するべきだと思っているのだろうか。それは端的にダサいぞ。

バロック・ダンスの段階で、小さい三拍子(3/4)と大きい三拍子(3/2)が重なる現象はメヌエットのステップで当たり前に起こるし、2分割(6/8)と3分割(3/4)が混じるリズムで踊るところがクーラントの特徴だったらしい。(ルイ14世がクーラントを得意にしていたのは、太陽王がこういうリズムを踊りこなせる「知性」を誇示したんだと思う。)

さてしかし、

ひとりで複数のリズムを同時に感じるのは「頭」の問題になるけれど、複数の人間がいれば普通にできる。(バロック・ダンスのポリリズムだって、もとはといえば、個人の知的遊戯というより、複数の遊びだったんじゃないかしら(←吉田秀和な語尾、『アルテス』もヒデカズを特集するそうですね)。)

そしてラテン音楽が2と3を同時に平行して走らせるポリリズムだ、というのは、基本が複数であるような音楽だ、という意味ではないか。(バロック宮廷とか、19世紀末とか、ヨーロッパでは、異文化とダイレクトに接触するスペインがポリリズムの供給源ということになっていた節がある。)

ポリリズムとは個人で複数を抱え込むことである、という風に考えると、和声におけるエンハーモニックに似た「難解さ」の象徴になるが、土台が複数であると考えれば、「世の中ってのはそういうもの」だ。(だから世の中の変化をぶっちゃけて音楽へ投入したかった1920年代はポリリズムとポリトナリティのオンパレードになった。そして「そういうもの」である複数性を嫌って、「もっと簡単になるはずだ」と単一化する大統一理論が出て来たから、1930年代は反動的だったと言われるわけです。でも、やっぱり、なんでもかんでも単一・統合・全体化するのは、人間として終わってるのではなかろうか?)

シューマンは、最後に他者とコミュニケートできない孤独な意識の淵へ沈んでしまったわけだけれども、複数で生きることを強く欲していた時期に、自分と一緒に生きてくれることになった女性が演奏するために、ピアノとオーケストラという「複数」を意識させる編成で書いた協奏曲で、複数のリズムが並行して走るのは、ひとまず「よかったね、おめでとう」という話だと思う。

ひとりで3/4と3/2を同時に所有するのではなく、「わたしは3/4のままやっとくんで、あなたは3/2でやってください」がポリリズムだと思う。そして「ペトルーシュカ」の冒頭のとんでもないポリリズムはカーニヴァルで人が入り乱れる喧噪の音楽だったわけです。あの場面は、コール・ド・バレエを幾何学図形としてではなく、個々人が別々に動くように振り付けたところがフォーキンの新しさだった、という話は、大久保さんが面白くお読みになったという鈴木晶(←精神分析大好き人間であるらしく、ニジンスキーがいつどんなオナニーを覚えたか、みたいなことばっかり書きたがる人ではありますが)の本にも出ていたと思いますけど……。