宗教学者の大阪神話、中沢新一『大阪アースダイバー』

出ましたね。週末に梅田の紀伊國屋書店へ行ったら入口に大量に平積みになっていました。

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

全体の構図は網野善彦譲りの「海の民」のお話になっていて、

著者のお友達で平松前市長人脈でもある内田樹や釈徹宗や江弘毅が言ってきたことや、

いきなりはじめる仏教入門 (角川ソフィア文庫)

いきなりはじめる仏教入門 (角川ソフィア文庫)

街場の大阪論 (新潮文庫)

街場の大阪論 (新潮文庫)


酒井隆史『通天閣』で詳述されたディープサウス資本主義の話などを上手にすくいあげて作り上げた一種の神話、宗教書めいた「文学」だとは思いますが、読むと元気が出る本であることは否定しがたい。

通天閣 新・日本資本主義発達史

通天閣 新・日本資本主義発達史

宗教学者が似非教祖に化けて幻視するような感じがあり、こういう本で「元気をもらう」のは、宗教は麻薬である、のカジュアル版なのかもしれないですけれど……、

現市長さんのピンポイント口撃にみんな神経が参ってウンザリしているこのタイミングで、こういう風にスケールの大きな大阪像を描く本が出てきたら、そりゃ、ターミナル駅の店頭で平積みになると思います。

(宗教学者中沢新一氏は、これで大阪へ呼ばれる機会が増えるだろうと思いますので、次は是非とも「弁護士」という職種の神話学的な基層がどうなっているのか、掘っていただきたい!)

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叔父さんであるところの網野善彦の東と西の日本史と、チベットに学んだ宗教学者中沢新一を重ねることができたのは、海の論理(西)と山の論理(東)のせめぎ合いという網野善彦流の視点を、無縁というキーワード経由で、生と死の境界がせめぎ合う入江のイメージに落としこんだからだと思います。そしてかつてのポストモダンな頃の文章から考えると、個別の事例を神話的に解釈する手つきがものすごく繊細・入念になっていて、まるで、経験豊かなシャーマンみたいな感じですね。このあたりは、学者の学説というより、文学だと思います。魔術的リアリズムな感じがします。

船場とか、千日前のお笑いとか、新世界とか、といった大きな話題を上手に書いているのはもちろんですが、大栗裕に関連してあれこれ調べたり、実際に足を運んだ場所が次々出てきたりするわけです。

そのピンポイントに「当たる」感じは、なんだか、占い師に見透かされているような感触があって、たとえば、本書のうしろのほうで「私市の宇宙船」の話が出てきます。そして山歩きの好きな大栗裕がまさにそのあたりへ行ったときの写真が残っているんです。「天の岩屋戸の物語」で吹奏楽曲を書いた大栗裕は、家の近所にある天孫降臨の高天原へ、ちゃんと足を運んでいたことになりそうで、この本の話のつじつまの合い具合は不気味です。

(あるいは、大阪フィルのブログによると、この夏には大フィルメンバーが通天閣でゲリラ・ライヴをやって、そこには在阪各紙の女性記者の皆様が取材に集まったとのことでしたが、あのプッシーな感じに突き出る新世界の塔に麗しき女性弦楽器奏者ならびに女性記者の皆様が集まって、掌に収まりそうにちっちゃいビリケンさんの足を撫でる図は、中沢新一流の神話学に照らすとあまりにも正しく「人間的」な行為であるということになりそうで、あのイベント・レポートの醸し出す独特の艶めかしさの由来がこのように納得されていいのかどうか……。

http://osakaphil1947.blog66.fc2.com/blog-entry-481.html

少なくとも、大阪フィルは今も正しく「大阪的」だと安心してよさそうだ、ということは言っていいのかもしれません。「野生の思考」は今も生きている。)

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そしてさらに個人的なことを言いますと……、

この本を買ったのは、再入院であれこれ検査をしておりました父が一定の結果を申し渡されて、さあ、これからどうするか、家族会議、という日でありまして、しかも父が現在住んでおりますのは河内音頭のメッカとして知られる八尾なのです。(八尾は、週刊朝日の連載が頓挫した人の出自とも関わる土地だったりするわけだが、それはまた別の話。)

この本はあからさまに「宗教書」であり、先述のように生と死の境界といった話題に終始しているわけですが、

両親とそれなりにシビアな話をしたあと、河内音頭の本拠である小学校のすぐ近くの彼らの家に泊めてもらって、開いた本のなかに、八尾は物部一族の土地であり、河内音頭は東の生駒山に祀られた祖霊を迎えて、踊りの渦へ祖霊を巻き込む祭礼なのだ……といった記述を読むのは、ちょっとマズいのではないか、と思わざるを得ませんでした。

2012年10月22日現在、父は元気に生きており、まだ、あちらの世界へ行く気はないのでありました。

(私は、まだ八尾の河内音頭を見たことはないのですが、来年は是非、行こうと思う。希望、というのは、きっと、こういうときに使う言葉なのだと思う。)