メロドラム/メロドラマ問題

「イーノック・アーデン」上演に先回りして、ひととおりメモしておきます。

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(1) 表出の特異点としての語り

私は、大栗裕がマンドリンオーケストラで取り組んでいた音楽物語というジャンルがずっと気になっていて、

最初に、これが18、19世紀のメロドラムと関連しそうだと気付いたのはシューマン・イヤーのときで、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101208/p1

そのあと、18世紀のメロドラムのことをもう少し具体的に調べて、ベートーヴェンに結びつけられるのではないか、ということを考えました。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120308/p1

音楽劇のなかに、音楽で制御できない言葉が出現して、音楽劇が臨界に達して破れる瞬間、音楽劇における表出の極北としてのメロドラム、ということがあるんじゃないか、ということです。

(シェーンベルクの「話し声Sprechstimme」導入へつながっていく論点ですね。)

(2) 市井の見世物における語り・身振り・音楽

そしてそのあとも色々考えていて、音楽に乗せて語るメロドラムは、ルソーが絡んでいることからもわかるようにハイ・カルチャーの閉塞を破る下克上の意味合いがあり、「気取って歌わなくても、普通にしゃべればいいじゃん」というぶっちゃけた感じがあったのだろうとも思います。

そう思って演劇史を見直すと、フランスでは台詞劇やオペラの上演が許された劇場の数が限られていて、歌と踊りの見世物興行は、御上の禁制をくぐり抜ける場末の娯楽施設の方便だったらしいことが気になります。ストーリーを台詞で展開する本格的な演劇の上演許可のない市井の見世物興行として音楽にのせたパントマイムをやったりしていたらしく、たとえば映画「天井桟敷の人々」に出てくるのは、そういう小屋ですね。

で、そういうパントマイムでやりやすいのは、笑わせることと、泣かせることだったのだろうと思う。とりわけ、泣かせる芝居に音楽は絶大な効果を発揮したことでしょう。

オペラのほうでも、ベッリーニの「ノルマ」などでは、プリマがほとんど歌わずに、音楽に乗せた所作だけで観客の関心を引きつけるような場面があります。そしてそのようなオペラにおけるマイム(身振りによる芝居)の極北は、プッチーニの「トスカ」だと思う。

場面を適切に設定すれば、歌わなくても、音楽(と身振り)の力で劇場を保たせることができるし、そのような手法の蓄積は、オペラと同じかそれ以上に、庶民的なパントマイムによって培われたのだろうと思うのです。

そして、そのような音楽の力で泣かせる芝居において、「語り」の役割は、言葉そのもので訴えるというより、決定的な場面を準備するガイドのようなものになる。つまり、語りを伴う音楽劇において、音楽をひきたてるように語る、という手法がありえたはずだ、ということです。

(3) ラジオと映画における語りと音楽

さらに言えば、20世紀に入ってから誕生したラジオドラマというジャンルもあります。ラジオドラマがさかんに作られた時代は新劇全盛でもありますから、びっしり台詞で構成する場合もあったでしょうが、音(音楽)をいわゆる「効果(SE)」以上に本格的にフィーチャーした例が色々あるみたいです。

三善晃の「オンディーヌ」はとても有名ですが、大栗裕にもラジオ・ミュージカルというのがありますし、放送劇おける音楽の可能性については、ラジオで様々な試みがあったはずです。

大栗裕の音楽物語の場合は、しばしば放送作家が台本を書いていますし、ラジオドラマの手法をコンサートにおける朗読劇に応用する意味合いが強かったと考えられます。

そして当然のことながら、このほかに、映画という20世紀の新しいジャンルで音と音楽を使う膨大なノウハウというのがあります。

18、19世紀のメロドラムと、今日のいわゆるお涙頂戴としてのメロドラマは、それぞれの典型を抜き出すと別物に見えますが、近代のドラマの大海原みたいな広がりの中でつながっているはずです。

が、それは、気の遠くなるような大きな話です。

そして日本の話としてこれをやるとしたら、ヨーロッパから入った手法だけではなく、日本の語り物という、これまた広大な領域を考えなければなりません。

千里の道も一歩から、なので、少しずつ勉強はしていますけれど……。

というような話題にいきなりバカが食いついておりまして、

日本の「メロ・ドラマ」はいったいなぜ? 誰か、調べて、本でも書いてくれないかなあ。

《イノック・アーデン》その他 ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

とか気楽に言われると、お前、ことの重大さがまったくわかってないだろう、と心底腹が立つ。

暇人の茶飲み話に片手間でやれるテーマじゃない。お前に「イーノック・アーデン」を語る資格はない、とか思うわけでございます(苦笑)。

(4) 藝術サークルにおける朗読と音楽

さらに言いますと、

上で素描したような話とは別に、ドイツの教養市民なんかだと読書会・朗読会文化というのがあって、たぶん、シューマンやリヒャルト・シュトラウスは、劇場のメロドラム/メロドラマよりこっちの系譜に依拠するところが大きそうですが、そうすると今度は、詩歌の朗読と歌曲の関わりというような問題が浮上する。

近代歌曲は、現在ではコンサートホールで他の(言葉を伴わない)作品に取り囲まれる環境で「上演」されますが、成り立ちから言えば、藝術サークルの詩や小説を朗読する声が渦巻く場から生まれたと見る方が適切だろうと思うわけです。詩と音楽を組み合わせるタイプのメロドラムには、劇場のメロドラムとは別の文脈があると考えられます。日本の浄瑠璃・長唄と地歌が同じように箏・三味線を用いても別の由来があるようなものですね。

(今井信子さんが昨年の「冬の旅」に続いて今度は「イーノック・アーデン」と考えたのも、おそらく、こちらの流れでしょう。「冬の旅」をヴィオラと朗読でやるのは、白井光子夫妻の先例もありますし。)

で、大久保くんは、メロドラムや語り物について、何を知っているのかね?

イーノック、ではなく、イノックが正しい、とか、そういうことは今にも滔々と演説しそうではあるが。