茂山千之丞作・大栗裕作曲 オペレッタ狂言「悪太郎」(一幕三場)刊行

大栗裕の知られざる音楽劇(京都女子大学の委嘱作で1962〜64年に地方公演された出演者3人+ピアノ・打楽器+女声合唱の室内オペラ、名前だけが伝わり、これまでどういう作品なのか不明でした)の台本・楽譜が刊行されます。

学会シンポジウムでの報告(大栗裕の仏教合唱曲の報告は白石が担当します、「悪太郎」の話ではないですが)とあわせて、大阪のイメージが強い大栗裕の京都での仕事ぶりを明らかにする第一歩と考えています。

この週末24、25日の西本願寺聞法会館における日本音楽学会全国大会会場で、毎回出店しているアカデミア・ミュージックさんが扱ってくださるそうです。なので、会場で原物をご確認・ご購入が可能です。

監修は、福本康之(浄土真宗本願寺派総合研究所上級研究員)、白石知雄(音楽評論家)、荒川恵子(京都女子大学准教授)。出版は、公益財団法人 ローム ミュージック ファンデーションの研究助成によって実現しました。京都の自照社より定価5,000円。

よろしくお願いします。

以下、同書の解説より

茂山千之丞作、大栗裕作曲のオペレッタ狂言《悪太郎》は、1962年7月14日、岡山県津山市立第一小学校講堂における京都女子大学女声合唱団演奏会で、合唱団と大学の音楽実技教員により初演された。配役は、悪太郎(テノール):竹内光男、女房(ソプラノ):田野邉ノリ、僧(バス):林達次、指揮:上村けい、ピアノ:島崎清、打楽器は合唱団員が兼ねた。

当時、京都女子大学は、毎夏2週間程度、仏教讃歌の普及と大学広報の目的で、教員と女声合唱団が全国各地で公演を行っていた。約100名の合唱団員から50名程度が選抜され、演奏旅行に参加、《悪太郎》には、さらにここから選抜された10数名が出演したらしい。津山公演は妙願寺の住職、森嵩正の尽力による。氏は、姉が戦前の京都女子専門学校の卒業生だったことなどから同窓会美作支部を作り、合唱団の招聘を取りまとめたと言う。土曜日の午後2時からと午後6時からの2回公演で、京都女子大学同窓会美作支部の主催、後援に津山朝日新聞社、津山青年会議所、作陽女子高等学校、美作高等学校、岡山労音津山支部、津山合唱連盟が名を連ねる。

京都女子大学合唱団はこのあと同月中に北海道各地で公演して、翌1963年は九州を回り、1964年は松江、宇部、広島、岡山に行った(広島では、公演前に原爆慰霊碑に参拝したことを含めて中国新聞に記事が出た)。詳細を把握できていない公演もあるが、合唱団は3年間に17の町を訪れて、ほぼ毎回《悪太郎》が上演されたと思われる。

残念ながら、これ以後再演された記録はない。しかし関係者に記憶が残った。京都女子大学女声合唱団が龍谷大学男声合唱団と合同で活動する龍谷混声合唱団は、第37回定期演奏会(1982年12月10日、京都会館第2ホール)を「故大栗裕先生を偲んで」と題し、同年4月18日に63歳で亡くなった大栗裕の略年譜と作品表をプログラムに掲載した。そこには「オペレッタ狂言『悪太郎』 京都女子大委嘱 1962年作曲」の記載がある。本書の編者のひとりである白石が、大栗裕に《悪太郎》という名の作品があることを知ったのは、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫が所蔵するこうした関連資料によってである。

《悪太郎》の自筆楽譜は、トレーシングペーパーという変則的な形態ではあるが、2005年から福本、荒川らが調査を行った京都女子大学の楽譜群(田中、福本、荒川 2007)に含まれていることが判明した。作曲者の遺族などから大阪音楽大学へ寄せられた資料に《悪太郎》は見当たらず、おそらくこれが、この作品の現存する唯一の楽譜である。

1. 読経・六斎・踊り念仏 - 1960年前後の大栗裕と仏教の関わり

京都女子大学女声合唱団が新作《悪太郎》を上演することを報じる同校広報紙『東山タイムス』1962年6月20日号は、狂言にもとづく音楽劇の筋書きを「悪の世界におぼれている主人公悪太郎が、ふとしたことから僧侶の導きによって念佛による正道にたちかえるという劇」と要約している。《悪太郎》は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗門関係校が広報紙で仏教的と認めることのできる物語だった。大栗裕は、7つの歌劇をはじめとする様々な舞台作品を手がけたが、明白に仏教的な要素を含む音楽劇は《悪太郎》だけである。

1964年4月、大栗は、京都女子大学に新設された教育学科音楽教育学専攻の教授に迎えられ、2年前に《悪太郎》を初演した教員たちの同僚になる。このあと、仏典による合唱曲や、仏教の賛美歌と言うべき仏教讃歌をいくつも書いた。同校における大栗裕は、相愛女子大学(現・相愛大学)音楽学部教授で音楽法要(宗祖降誕奉讃法要第一種、1963年)を作曲した大橋博とともに、本願寺派の洋楽、合唱への取り組みを支えるカントールの役割を果たしたと言えるだろう。

しかし、教団との関係を築く以前に、大栗裕は、主に舞台音楽や演奏会用音楽で仏教的な題材に既に熱心に取り組んでいた。[……]