文化史の秋:ピーター・バーク『文化史とは何か?』

文化史とは何か 増補改訂版

文化史とは何か 増補改訂版

2週間前から、ずっと八尾の両親(正確には父が再入院したので、居住しているのは母のみですが)の家に寝泊まりしておりまして、時間があるので、じっくり読みたい本をいくつか持ち込んでおります。

先に軽く言及したシヴェルブシュの一連の文化史本もそうですが、

ベルリン文化戦争―1945‐1948/鉄のカーテンが閉じるまで (叢書・ウニベルシタス)

ベルリン文化戦争―1945‐1948/鉄のカーテンが閉じるまで (叢書・ウニベルシタス)

  • 作者: ヴォルフガングシヴェルブシュ,Wolfgang Schivelbusch,福本義憲
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2000/11
  • メディア: 単行本
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敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

  • 作者: ヴォルフガングシヴェルブシュ,Wolfgang Schivelbusch,福本義憲,高本教之,白木和美
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2007/08
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「勝者は短期的な未来のヘゲモニーを握るけれど、中期的な未来を創るのは敗者の側だ」という状態が、合州国を含む西欧では、近代総力戦の時代になり、飽きることなく反復されている、というお話。こういう話を読むと、ヨーロッパは、近代になって随分小ぎれいになったけれども、心性・メンタリティとしては、今も海賊や騎馬民族の部族社会なんだなあ、と思う。戦国時代がずっと続いているような感じがします。

こういうのも読んだ。(父の闘病中に「敗北の文化」や「力道山に負けた男」を読むのが、いいのかどうか、というご意見もありましょうが……。)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

ネタバレになって申し訳ないけれど、最後の最後に著者が「負け」を認めるところで泣く。「家元」との闘いとはこういうことか!

で、「文化史」をちゃんと概観しようと思ったのでピーター・バークです。

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1980年代以後の30年が「文化史の季節」であった、という視点で書かれており、私が大学へ入ってから今日までと、ほぼ重なりますね。バーク先生が文化史の「古典」として掲げるものは、懐かしい感じがします。

イタリア・ルネサンスの文化

イタリア・ルネサンスの文化

中世の秋 (上巻) (中公文庫)

中世の秋 (上巻) (中公文庫)

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

  • 作者: ノルベルトエリアス,Norbert Elias,赤井慧爾,中村元保,吉田正勝
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2010/10
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サンドロ・ボッティチェッリの“ウェヌスの誕生”と“春”―イタリア初期ルネサンスにおける古代表象に関する研究(ヴァールブルク著作集1)

サンドロ・ボッティチェッリの“ウェヌスの誕生”と“春”―イタリア初期ルネサンスにおける古代表象に関する研究(ヴァールブルク著作集1)

ヴァールブルクだけは、とらえどころがなくどこから手を付けたらいいのか、今もよくわからないけれど……。

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歴史学に「人類学的転回」(過去を「他者」として見る、人類の「不変/普遍の本質」を安直に信じない態度とひとまず言えそう)をもたらした本、としてマルセル・モースからレヴィ=ストロース、そしてなによりクリフォード・ギアツといった名前が挙がっているのを読むと、

ヌガラ――19世紀バリの劇場国家

ヌガラ――19世紀バリの劇場国家

これまた「あの頃」の記憶が蘇り、「文化史の季節」が「文化人類学の季節」に接続していたことが思い出されます。

(阪大音楽学でも、「土人の音楽に興味はない」とばかりに、民族音楽学に対してインポテンツであった「西洋系」の人たちは、「文化としての音楽」を取り扱う知的体力を欠き、あっけらかんとした「クラオタ」になることすらできないまま、「昭和の亜インテリ」として進化を止めてしまったのでした。)

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そうして新しいパラダイムとして、バーク先生は、日本で学者というより(文藝)批評家によって紹介されることの多かった人達の名前を出す。

日常にドラマ・政治・創造を見るセルトーとか、フーコーの柔らかい支配が身体へ及ぶ体制論が「文化史」にインパクトを与えた、というのは見やすい話ですが、

カーニヴァルのポリフォニー(バフチン)は新しい都市論の嚆矢、ブルデューはフランス・ブルジョワ階級の嫌らしさにメスを入れる諸概念を鋳造した人、という捉え方なんですね。

そういう風に捉えると、

  • ヴァールブルク → 文化の「型」を見る
  • バフチン → 都市/祝祭を読む
  • セルトー → 日常を読む
  • エリアスの文明化 → 自己規律
  • フーコーの体制論 → 上からの規律
  • ブルデューのブルジョワ研究 → 差別の解明

という風に、「文化/文明」なるものの様々な側面を立体的に見るための道具立てが揃う感じがよくわかります。

フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化

フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化

ルーダンの憑依

ルーダンの憑依

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

ブルデューの言う distinction には適切な訳語がない、とされ、フランスの知識人は、デリダのディファランスなど、翻訳不可能なキーワードを駆使する超天才たちなのであろう、というように難解さを有り難がる風潮が棹さされておりますが、

ブルデューは、たとえ話がいまいちエレガントじゃないし、ニューアカな人達が好んだフランスのおしゃれな「文章家」(ロラン・バルト以来の、みすず書房が元締めになっているような)から若干外れる気がします。(capital culturel とか、彼が使う言葉は散文的で身も蓋もなく喚起力に乏しい。書物の内容からすると、そういう言葉遣いでいいんだろうと思いますが。)

ここで説明されているのは、ハイ・アートへの対応等々がフランスのブルジョワ階級を見分ける( = distinctiveな)目印になっている、という話ですよね。

そしてそのような、「学校では教えてくれない」目印(それは同時に「学歴資本」ならざる「文化資本」の存在の目印でもあるとされる)によって見分けられてしまった他者を、ブルジョワたちは、なるほど声高に糾弾し、強制的に排除(discriminate)するわけではないけれど(合州国の黒人差別やナチスのホロコーストや、ロマ・ジプシーや移民への排他感情ように)、しかしながらそこに隠然と線引きをして、階級を維持・再生産するメカニズムが作動していている、それが distinction だというのですから、これは、わたくしたちの日本社会でもおなじみの、部外者にはほとんど見分けがつかないところに線を引くタイプの「差別」に他ならない。

書名は『差別 - 社会の判断力批判』とすればいいんじゃないか。

いい訳語が見つからない、と悩んでみせるのは、「差別」という言葉を直截に使いたくない、どうにか言い換えてお茶を濁したい、という日本の出版文化の、いわゆる「言葉狩り」意識だと思う。

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で、今でも本屋の「文化史」の棚は花盛り。何でもかんでも、「○○の文化史」とつければ学問に昇格できるのか、と、慎み深いインテリジェンスに感動を禁じ得ませんが(笑)、

体位の文化史

体位の文化史

  • 作者: アンナアルテール,ペリーヌシェルシェーヴ,Anna Alter,Perrine Cherch`eve,藤田真利子,山本規雄
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 単行本
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大きな書店の「文化史」の棚には、こういうのがズラズラと何冊も並んでいる……。

バーク先生は、かつて「身体」は医学の対象だった(思想・精神のリベラル・アーツの対象ではなかった)のが、身体を文化へ繰り入れる「身体論的転回」が生じたと言います。

医学書の図版に興奮する向学心溢れる子供であった方々が、良識ある大人になって歴史コーナーへ移動した。そのような「転回」を、わたくしたちは書店の品揃えにおいて観察することができる、ということになるのでしょうか。

でも、バーク先生は、「文化史」のバブル的隆盛は、もう終わりが近づいている、というご意見のようです。

思い返せば、「文化史」は社会史、社会理論へのアンチを期待されて盛り上がったわけで……、

文化を含む森羅万象の因果(causality)を「社会史/社会理論」で解明する、ということになると、その向こうに唯物論的社会主義が垣間見えるので、西側陣営にとっては嬉しくない。

そうして20世紀末には資本主義が大勝利を収めたのだから、ここはひとつ、決定論や本質主義から遠く離れて、社会の森羅万象を融通無碍(occasional)な「文化」として見ればいいんじゃないか、ということだったのだと思います。

でも、世の中、ハッピーでお気楽な時代がそう長く続くものでもない、ということなのでしょう。

(決定論への恐れから、「それは本質主義だ」というお札を貼って相手を口封じをする風俗が「構築主義」という言葉とともに蔓延しているわけですけれど、「構築主義」というのは、何のことはない、「つくられた説」のことなんですね。精緻な理論と壮大なヴィジョンが背後に控えているのかと身構えたのですが、実情を知り、ガッカリです。見損なったぞ構築主義(笑)! 漢字を並べて、仰々しく偽装すればいいってもんじゃないだろうに。)

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アクチュアルでコンテンポラリーで先端的であり続けたい人たちは、社会か文化か、という冷戦を思わせる図式を抜け出して、ついでに、文系/理系といった区別も脱してメディア論へ移行している印象があります。

「文化史」は、特定の現象・領域を、はやりすたりにかかわらず、細々と保守・管理する場として残るのかもしれませんね。

ポピュラー音楽学会は前者で、音楽学会は後者なのでしょう。

それでいいのではないだろうか。