自然科学というヤンキーな宗教の射程:一川誠『錯覚学』寸評

人間にとって平面との出会いは、立体との出会いよりもずっと遅れて発生したものだ。今、私たちは立体的環境に足を踏み出すことなく、紙にせよ、スクリーンにせよ、いかに平面上ですべてを理解し処理するかに多大のエネルギーを注いでいる。ときには、立体的環境に直接手を伸ばしたほうがはるかに簡単なときでさえ、である。

東京大学(英米文学)・阿部公彦の書評ブログ : 『錯覚学 ― 知覚の謎を解く』一川誠(集英社新書)

「正しさ」という概念を、とりあえずの参照点として、ではあっても導入してしまったことで、わかりやすさと、あと一息感を同時に持ってしまったような気がする『錯覚学』という本について、

「平面」は人類にとって出会ってから日の浅い環境である、という感想は射程の長い、恐るべき認識のような気がします。

錯覚学─知覚の謎を解く (集英社新書)

錯覚学─知覚の謎を解く (集英社新書)

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上の引用で言及されるのは立体から平面へ、という話ですが、立体と同じくらい昔から、人類は、時間の次元をも含みもっている「語り」とか「音」とかのある環境に暮らしているわけで、そのように面妖な「語り」と「音」を人類が平面へ投影して把握するようになったのは、これもまた、(楽譜の誕生という話でなされるように)ごく最近のことに過ぎません。

目新しいことだったからこそ、人類は平面を覚えたとたん病みつきになってしまったんでしょうね。

(とはいえ「サッカクガク」は、「音楽学」と同じくらい語呂が悪いわけだけれど。カクガク、ガクガク……)

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そして……、

ローマ字と言われるアルファベットは、今でも世界の共通文字として使われることになった。人類十数万年の歴史からすれば、それ以後の二千年というのは片々たるものだが、アウストラロピテクスに始まるとされる類人猿の歴史が六百万年、哺乳類の歴史が二億年、生命の歴史は四十億年、地球の歴史が四六億年、宇宙の歴史が一三七億年である。人類の、有史というものは、どうやら地球という惑星の、ほぼ終末期に近いところに位置するらしく、つまり知的生命体が生まれたこと自体、かなり低い確率の偶然であって、宇宙にはほかにそういうものは存在しないようである。(48頁)

日本人のための世界史入門 (新潮新書)

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人類と平面との付き合いが「ごく最近」だと言うときには、たぶん、これくらい長い尺度が要る。

盲目の時計職人

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  • 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,中島康裕,遠藤彰,遠藤知二,疋田努
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神=創造主を想定しない偶然の無数の積み重ねによる適者生存(進化論)というのも、同じように長い長い物差し(宗教・神話にしばしば出てくる途方もない距離や時間を振り切ってしまうような)が要るみたいです。

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つまり「自然科学」は、凡人にはそれ自体が新しい宗教ではないかと思えるような、宗教と見分けが付かないほどとてつもない量や長さ、大きさや小ささを前提して構築されており、そのような途方のなさが競合している相手は(「ロマン主義」といったちっぽけなものではなく)「宗教」なのだと思います。

魔術や錬金術から発生した、という歴史的経緯だけの話ではなく、今なお、そうだといって、ほぼ間違いなさそうです。

(ドーキンスは今も「創世記」を信じるアメリカ人を想定してああいう本を書いたわけだし、かたや北米「新大陸」を西へ西へと開拓して住み着く(「インディアン」を征伐しながら!)という苛酷でとてつもない行動は、それくらい頑迷な信仰がなければ、とうていやり通せないものだったようにも思われます。ブッシュ父子に投票して、高層ビルに飛行機が突っ込む悪夢を招いたヤンキー(←河内や北関東のそれではなく原義のほう、……まあ、どっちも同じようなものかもしらんが)は、バカだなあと思いますけど、凄い人達ではあって、21世紀の「自然科学」は、彼らと競合せねばならないからこそ、最強に強まりつつあるのでしょう。)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (文春文庫)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (文春文庫)

ヤンキー文化論序説

ヤンキー文化論序説

だんだんと話題がオトコ・マスダなエリアへ接近してきた気がする……。

だからたぶん、自然科学は宗教と競合しつつ共存している、とも言えるわけで、宗教を消去して自然科学の「一人勝ち」を夢想することは、構造上、自殺行為なのかもしれませんね。

(……という覚悟についてだったら、ひょっとすると、吉田寛とも話が通じたりするのだろうか?!

その上で、日常生活ではめったにそこまで遠大な「時間」が想定されることはないのだから、みだりに自然科学版「無量光/無量寿」みたいなものをもちだして信徒を屈服させるのはイカン、と私は思うわけだけれども。)

おてらくご (落語の中の浄土真宗)

おてらくご (落語の中の浄土真宗)

宗教が個人に働きかける力は圧倒的なものだという認識が長年の経験で蓄積されているからこそ、「プロの宗教教団」は、説法がいかにあるべきか、教義とエンターテインメント性との配合等々に細かく気を配っているようです。(ちょうど、人の生命を預かる医者が、患者との関係に細心の気配りをするように。)

自然科学も、自らが宗教である自覚のもとに同様に繊細な人付き合いを心がけてしかるべきなのだろうと思うし、だから、門外漢が自然科学の知見を取り扱うときは、無認可医師が手術を執刀してしまうかのような蛮行を犯してしまわない注意が必要なのだと思います。

哲学に自然科学と同等の「力」を付与しようとする分析哲学が危険なのは、シロウトが自然科学を自由気ままに振り回せてしまえる怖さ、ちょうど、銃規制のない社会で少年が猟銃を撃ちまくってしまえる恐ろしさなのではないだろうか。(shinimaiとか見てると、どうもそんな感じがしてならないのだが(笑)。)

[追記]

余談になるが、

「[売れに売れた例の共著の新書について]ネットではあちこちでボロクソに書かれたのだが、公衆の面前で批判されたことは一度もなく、そのギャップについて考えざるを得なかった」という大澤真幸さんの発言が、先日のコンベンションでは、同じく本を書く人間の端くれとして、もっとも印象に残った。

吉田寛 Hiroshi YOSHIDA on Twitter: "「[売れに売れた例の共著の新書について]ネットではあちこちでボロクソに書かれたのだが、公衆の面前で批判されたことは一度もなく、そのギャップについて考えざるを得なかった」という大澤真幸さんの発言が、先日のコンベンションでは、同じく本を書く人間の端くれとして、もっとも印象に残った。"

以前、西本願寺に吉田寛が来るのと同じ日に「お呼ばれ」したことがある。

久しぶりに会えるのか、と思って当日行くと、敢えて時間をズラしたらしい。同伴者が、「やはり会わせないほうがいいだろう」と気を回したと伝え聞いた。

それでも同じ時刻に同じ書院の畳で狂言を観ていたはずだが、私の瞳には、あの群衆のなかから特定の人物を見つけ出す視力はないので、本当に同じ時刻に同じ場所に彼がいたのか、今となってはわからない。

人と人とが「直接会う」のは、そんなに簡単なことではないし、まして京都は、誰と誰をいつどのように会わせるか、の配慮が高度に洗練・発達した都市として知られており、そのような都市の「大学の先生」なのだから、なにをか言わんや、というところであろう。

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そしてそのように考えると、大フィルの事務局が、定期演奏会のロビーでお客さんと対面で「今日の聴きどころの解説&質疑応答」をやることにしたのは英断だと私は思っている。

彼らはお客様を信用しているし、お客様の懐へ飛び込む勇気がある。

(私にはそんな勇気はないし、だから「興行師」には向いていないのだろうと思う。)

一方、京都市の交響楽団がやっているのは、アメリカ仕込みの広上淳一の発案による、指揮者・出演者のステージ上からの「プレトーク」である。