和紙を毛筆で撫でるvs石に刃先で文字を刻む(松本彰『記念碑に刻まれたドイツ』)、そういえば音楽の「記念碑様式」の研究史はどうなっているのか?

[最後に音楽の「記念碑様式」のことを簡単に追記]

「書の国」の人々が「書」に与えている役割と、ユーラシア大陸の反対に住む人々が自国の音楽(をはじめとする文化)について「書く」行為に互換性があるのかどうか、同列に読めば読めてしまうのだけれども、そのような「読み」がユーラシアの反対側の人々の生態を察知することにどこまで役立つか、ということは、「読む」行為とは別に、一度どこかで、じっくり検証する必要がありそうだ。

まとめ:書の国ニッポン千年が音楽の国ドイツ二百年に懸想した顛末 - 仕事の日記(はてな)

と勢いに任せて書いた直後にこういう本があることを知った。(吉田寛先生は、松本先生に招かれて新潟へ行ったこともあったはずなので、当然ご存じと思いますが。)

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一

歩行者天国だったブランデンブルク門は、松本先生が写真を撮っている一ヶ月後に、今は東大准教授な某氏と見物に行ったのを思い出す。まだフランクフルトから直通のICEはなくて、マインツからケルンへ出て寝台列車だったような……。

「音楽の国」なのかもしれないドイツは、音楽についてレンガのように重たい本を量産した同じ19世紀から20世紀にかけて、国のあちこちに頑丈な石の記念碑を建てたわけですね。

そしてハーバーマスの見立てによると、そのようなドイツ帝国において、「読書する市民」と「平民」がせめぎあって「公共性」が「構造転換」したことになるらしい。

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

レンガのように重たい本を一定数以上生産できるようになったのは産業革命な輪転機のおかげではあるけれども、通常これは、「市民」の書斎に収蔵されて、「平民」の目には触れない、いわば「密教」。そして彼らが目にするのは、レンガめいた本ではなく、リアルな石の記念碑のほうだ。

はるばる海を渡ったり、飛行機で空輸されてきた密教的な「レンガ本」を極東の島国で「読破」する、という吉田寛先生の弘法大師な「競技」は、そのことによって石の記念碑を破砕し得たかのような効果を狙ったイリュージョンと見ることができるのかもしれませんね。(おお、ラバーハンドイリュージョン(←さっき覚えた)だ。)

紙に名前を書いて、それに釘を刺す呪いの儀式、という感じもあるし……。

(考えてみれば、ペンを剣と比較してどっちが強いか、みたいな格言があったり、キーボードを「叩く」ことで文字を紙に「刻印」する機械が考案されたり、西洋人(と一挙に雑駁に範囲を広げてしまいますけれど)が文字を「書く」ことの周辺には、硬いものに記号を刻むイメージがありそうで、ペラペラの紙をふさふさの毛でさらさらと撫でる「日本的達筆」とは雰囲気が違いそうです。

そんな連中とやり合うには、紙に釘を突き刺すといった、彼らに対して効力があるかどうかは不明だけれども、わたくしたちにとっては並々ならぬ決意なしには行い得ない例外的な呪いの儀式が必須である、ということになるのでしょうか。

長らく石に囲まれて暮らしている人たち(家屋も石だ)は、「木と紙の国が考案するマン・マシン・インタフェースは、なるほどワシらとは違うのう」と思うかもしれませんね。21世紀のジャポニスム。)

[追記]

そういえば、ドイツ音楽のナショナル・アイデンティティに言及することを避ける傾向があったとされる戦後西ドイツの音楽学者カール・ダールハウス(ちょうど1989年に死んだ)は、それでもワーグナー全集に関わったりしているので、ベートーヴェンの「第九」にはじまる巨大な交響曲群については時折語っていたはずです。

(そういうときにダールハウスは「monumental」という形容詞を使うことが多い印象があります。monere(思い起こす)が語源だから、Denkmal とほぼ同義と見ていいのか、ゲルマン語系で様々な連想をそれこそ呼び覚ます Denkmal の語を使わなかったことに「意図」を読み取るべきなのか。)

松本先生の記念碑調査は、80年代以後の「記憶の歴史学」という視点が背景にあるわけですが(日本の靖国論争のときにも、しばしば歴史学者が登場した)、音楽におけるモニュメント(破格な巨大さを志向する作品群)を、歴史の記憶/記憶の歴史の問題と絡めることはできるかもしれませんね。

そうなったときに、「戦後西ドイツ的」なダールハウスをはじめとする学者たちはどういう位置取りになるのか。問題を隠蔽したのか、論究の手がかりを道標のように残したことになるのか。

ダールハウスの音楽美学

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絶対音楽の理念 十九世紀音楽のよりよい理解のために

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リヒャルト・ワーグナーの楽劇

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音楽史の基礎概念

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ベートーヴェンとその時代 (大作曲家とその時代シリーズ)

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1970年代に大阪でいくつもの「○○周年記念作品」を書いた大栗裕とも無関係ではない話だな、これは。……というより、2012年の「没後30年」でその種の作品を再演するお手伝いをしたわたくしとしても、一度ちゃんと考えなくてはいけないことなのかも。いわば「アニヴァーサリー・周年記念の修辞学」。

「今このとき」を謳歌するお祭り・フェスティヴァルの研究は音楽でも結構あると思いますし、産業の「進歩」の先に未来を夢見る博覧会の研究もありますが、メモリアルはたぶんそれと重なりつつちょっと違う、というか、関心の力点が「記憶」よりもお祭り・イベント・パフォーマンス側へ現状では引き寄せられすぎているかもしれない。

博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)

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音楽を展示する―パリ万博1855‐1900

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万博幻想―戦後政治の呪縛 (ちくま新書)

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