Pierre Souvtchinsky の名と20数年ぶりに再会するストラヴィンスキー『音楽の詩学』新訳

音楽の詩学 (転換期を読む)

音楽の詩学 (転換期を読む)

笠羽映子さんがフランス語1942年版から訳したストラヴィンスキー『音楽の詩学』の巻末解説を読んでいると、コスモポリタンな人が協力者と複数の言語をまたいでやりとりする執筆現場が垣間見えるわけですが(そうした多言語状況が問題になる最初の大作曲家はたぶんフランツ・リストでしょうね)、

ハーヴァード大講義録として出た本書(および講義原稿)の草案に関わった人物としてピエール・スフチンスキーという名前が出て、確かこの人は……と思ったのでした。

私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝 (転換期を読む 16)

私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝 (転換期を読む 16)

こっちのあとがきでは、ボリス・ド・シュレゼールが大変な「悪役」扱いで吃驚する。これがそういうことでいいのかどうかは、私には判断がつかない。

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1991年3月に恩師谷村晃が阪大を退官するタイミングで業績目録を作ることになって、修士2年目のわたくしと同期の田井竜一さん(今は京都芸大日本伝統音楽研究センター)が実際の作業をやったのですが、そこでこの名前を見たはず。

現物を久々に取り出してみると、関西学院大学美学科の1961年の演習内容(今風に言えばシラバス)に、仏書講読 Pierre Souvtchinsky, "Le notion du temps et la musique" というのがあったのでした。

谷村先生の1950年代から60年代初め(ミュンヘン留学まで)の美学論文や書評をみると、ブルレの『音楽的時間』やツッカーカンドル『音と象徴』があって、スフチンスキーはその周辺ということだったのかなあ、と思います。

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ブルレが美学で時間論をやるときに参照されるのは今でもそうなのでしょうか? 音楽と象徴、というか、象徴としての音楽、というと、わたくしなどは渡辺護先生の美学の「内在的象徴」論を思い出して、「楽音はノイズと区別されるし、音楽の意味は、記号としての音の働き(ブザーが警告を意味するような)とは違うのである」という戦後の実験音楽以後、通用しにくくなってしまった議論が懐かしいです(ツッカーカンドル『音楽の体験』にも、このお話が出てきたと思う)。

第二次世界大戦後、1950年代に戦後派の実験音楽が出てくるまでの戦後処理の空白期間に、戦時中の反動への戦後補償みたいにしてストラヴィンスキーやヒンデミットの新古典主義の復活があったわけですが(バーンスタインの、リベラルなニューヨーカーなのに実験音楽には行かない作曲家としての不思議な立ち位置も、1940年代の新古典主義復活を踏まえないと上手く説明できなさそうな気がします)、

昭和ヒトケタ世代で戦後、音楽学会を「創った」先生方がブルレやツッカーカンドルをやっていたのは、新古典主義からモダニズムをやり直すということだったのかなあ、と思います。

戦前の教養主義から一足飛びに1960年代の「前衛・実験の季節」が来るわけじゃないんですよね。そしてこの論調は、大学の先生方の基調になるので、音楽の Common Practice 並みに息が長い。戦後の音楽史は、理論の面でも、最先端を追いかけるだけじゃなく、「新古典主義」的なものの広がりと根強さが何だったのか、考え直したほうがいいかもしれません。

このあたりは、昭和の空気を知っている「中年後期」の人間が、死ぬまでにはまだ何十年もあるはずだから(笑)、それまでにどうにかしたほうがいいのかもしれませんし、音楽学には、出し遅れの証文みたいに「現代思想」を次から次へとインストールする以外にも、まだ色々やれることがあるはずだ、ということかもしれませんね。

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わたくしが最初から最後まで責任をもって作った書物というか冊子というと、現在に至るまでこの『谷村晃業績目録』という数十頁の小冊子だけです。目録というのは、資料を集めて、関係の方々から色々お話をお伺いして、ドバっと集まった紙の山を分類・配置して、校正も細々とやたらに大変で、でも、(この目録もそうですが)著者・編者として自分の名前が出るとは限らなくて、なんかこの、作った人が黒子になる感じが嫌いじゃないかもしれません。

20年後に、大栗裕の仕事の全体像をどういう風にしたら形にすることができるのか、ジタバタしているのは、分相応でわたくしにはちょうど良いのかもしれませんね。谷村先生が仕事をした場所と時代も戦後の関西ということで、微妙にカブりますし……。

それに、考えてみればもうひとりの恩師、山口修先生がハワイ大学に出した修士論文はパラオ(ベラウ)古典音楽の「分類法 taxonomy」で、ジャンルの分類はその文化の「知」の表れだ、というような話ですから、目録をコツコツ作成するのは、山口先生の学問的 DNA をちょっとは受け継いでいることにもなるのかもしれません。誰も気付かない自己満足だと思いますが(笑)。

(でも、そういう流れで言うと、私は山口先生と同じで、分類はフラットに、融通無碍に、それこそKJ法的にやるしかしょうがないと思ってますが、増田聡クンが「タイプとトークン」とか言うのは、情報・概念の分類に上下関係というかヒエラルキーを持ち込むことですから、いかにも彼らしいところがある、と言えるかもしれません。私は、そーいうのが、ほとんど生理的に嫌なんですよ(笑)。良い悪い、正しい間違ってるじゃなく生理的な嫌悪感。上位も下位もあるかボケ、プラグマティズム言うんやったら、デューイの図書館十進法分類で十分やんけ、とか思ってしまうわけです(笑)。そんなんは、タテ社会大好きな東大の官僚にやらしといたらエエんです(笑)。……個人の信条として勝手にそう思っているだけで、同意や同士は別に要りませんが。)

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あと、谷村先生の業績目録を見直して思ったのは、やっぱり先生が退官したあとの山口・渡辺時代は美学が弱かったですね。自分を含めて。

渡辺裕にそそのかされて、院生の誰もが(助手の岡田暁生までもが)「編曲」「パラフレーズ」とか、「リミックス」「パクリ」とか口走っていたわけですが、そしてそういう現象は、音楽の底を抜いて広い場所へ音楽が流出していく、いわば、枠を壊すきっかけ、ネタとしては有効だったかとは思いますが、流出した先がどこでどうなっていくのか、行く末を責任もって見届けようとした人は今もっていないわけで(「国民」の(再)構築、というイデオロギーを持ち出してもそれだけでは無理でしょう)、流れ流れる流れに乗って仕事をゲットした当人はいいかもしらんが、放言の余波がどう成り行くのか、あとは野となれ山となれ、なダラシナサは、「美学の欠如」、「感性の鈍重」と形容されてもしょうがない気がします。

だから私は、3.11原発事故を引き起こしたのは渡辺裕だとかなり真剣に思っているし(これを指して「陰謀論」と言うのであれば、別に「陰謀論」でもかまわないので、どんどん広めていただきたい(笑)、ここ→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120117 にリンクをまとめたような「中年男の冷や水」風な最近の流行の学風の復習をやりはじめたのも3.11がきっかけです)、

しょうがなくないようにするために、ひたすら、うどんを食ったり、対位法の課題を解き続けたり、モダン・ジャズを聴き耽ったり、皆さん、遅ればせに修行をなされる、ということでしょうか。空いた穴をふさぐのは、色々大変みたいで……。

(この件については、あとがどうなるか、よく考えずに底を抜いたのは、評論・エッセイとしては面白かったかもしれないけれど、学問としては無責任で準備不足、分不相応な間違いが多すぎた、というのが私の意見です。音楽機械劇場とか、音楽ゲーム論とか、作者は誰だとか、ピアニストになりたい!とか、そんなことを言いたくなる何かが起きたとは思うけれど、「音楽」は、そこまで大それた分野ではないと思う。それに、なるほどみんなに好かれる人気者な分野ではあるけれど、「音楽学者」が人気者になれるわけじゃない。調子に乗りすぎた。)