隠喩としてのマイカー:社会と文化を「のりこなす」人生の学的基盤?

口の悪いオッサンによる社会学の泥縄式の自習・独習、その1。

梅田ジュンク堂の「社会学」の棚の前に立った瞬間に、話題が百花繚乱状態で目眩がしそうでした。

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文学部の学科(ましてその一部である美学・芸術学系のさらにサブジャンルである音楽学の、斜陽化が叫ばれるクラシック音楽部門)とは事業規模が違いすぎますね。

本郷のアカデミアミュージックとか、梅田駅前ビルのササヤ書店のような輸入楽譜専門店と、丸ノ内や淀屋橋にでっかい本社ビルのある一部上場企業(国内外に支社ならびに子会社多数)くらいに違いがある。あるいは、個人経営の診療所と、お城のような阪大病院くらいに違う、と思ってしまいました。

文庫や新書のコーナーに『都市のドラマトゥルギー』や『郊外の社会学』と、『マーラーと世紀末ウィーン』や『オペラの運命』が同じフォーマットで並んでいるからといって、そんな風に氷山のてっぺん部分だけを眺めて物を言ってはいけなさそうだ。コンサートの隣の席に座っている新聞記者さんとか、演奏者の関係者さんとは、たまたま今は並んで話をしているけれども、生活水準であるとか、背負っているものとか、比較するのもおこがましい落差があるわけでありまして、そういう唖然とする違いの諸相、そうしてそれにもかかわらず、そのように異質な者が何かのはずみで席を同じくする仕掛け、両方があって、「社会」は面白いのでしょうね。

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

町田のニュータウン脇の旧住民、という立ち位置は、郊外を論じるために生まれてきたような僥倖ですよね。団地を脱出してから「団地=サヨ」と決めつけて悪口を書く人とは、生まれ・育ちが大違い。^^;;
滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

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で、いきなりそんな優良大企業のビルに単身で乗り込む勇気はないですから(そんなことをして警備員に羽交い締めで放り出されるのは嫌だ、社会学本社ビルの「システム」はかなり厳しそうだし(笑))、入口を出入りする人たちを遠巻きに眺めながら雰囲気に探りを入れておりますと、

社会学の出発点のところは、「大衆」というような現象を意識せざるを得ない19世紀後半から20世紀前半にマックス・ウェーバーとか出てきて、デュルケムの一番有名な本は『自殺論』なのですから、社会という問題、あるいは、いわゆる「社会問題」を扱う学問ということで、今では多角経営になりましたけれど、本業はそういうこと、本筋は(しばしば不特定多数であるような)集団としての人間の振る舞いの諸相を扱う科学なんですね。

(だから本棚には、ちょうど音楽における楽典、和声法・対位法・形式学みたいな感じに地味な指導書も色々並んでいた。)

世界思想社の『社会学ベーシックス』という、いかにも真新しそうで、かつ、気軽に手に取れそうなシリーズをいくつか立ち読みしてみると、売れ筋商品っぽい著作のあらすじと著者のプロフィールをまとめたジャンル別カタログのような体裁で、著者たちの多くは、ヒットした代表作に直接関わったり関わらなかったりするところで、なんらかの「社会問題」にタッチしていることがわかります。

都市的世界 (社会学ベーシックス4)

都市的世界 (社会学ベーシックス4)

それから、ホルクハイマーやアドルノのフランクフルトとか、パリでデュルケムの後を継いだモース(贈与論の人)からレヴィ=ストロース(元共産党)とか、バーミンガムのCSとか、ヨーロッパの社会学は遠目に「赤」っぽく見えてしまう一方、戦後ニッポンの高度成長のホームドクターな雰囲気があったように思えてならない北米の社会学(東京藝大楽理に1960年代に赴任した柴田南雄はそういうのを意識しながら音楽学・音楽史が社会科学になるべきだと考えてああいう記述スタイルを採用したのだと思うし、日本音楽学会の今も続く社会科学的になりたい感じは当時の遺物のような気がします)が「赤い」はずはないよなあ、と思ったら、北米に社会学を根づかせたシカゴ学派という「社会問題」の総合病院みたいなところ(初期にはジンメルの影響が大きかったみたい)があったらしいことがおぼろげにわかってきました。

シカゴ学派の社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

シカゴ学派の社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

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ポピュラー文化 (社会学ベーシックス7)

ポピュラー文化 (社会学ベーシックス7)

で、サブカルチャーなんですが、色々とそれを定義する試みがあるようで、そこはこれから勉強してみますが、

概説をざっと眺めるなかで、わたくしがどこでついていけなくなるのか、ポイントを徐々に特定できそうな気がしてきました。

とりあえずサブでもメインでもいいのですが、「文化」の一方的な受け手になるのではなく、能動的に「文化」を「使いこなす」「のりこなす」動きを評価する、という論調があって、そのような「のりこなし」を見いだした場合の丁重な取り扱いが、まるで犯すべからざる社会学上の「基本的人権」のように思われ、性善説の「天賦人権思想」みたいな印象を受けました。

(シングルマザーへ寄せられる声援の嵐にも、ご本人や、そしてもちろんこれから育っていくお子さんには切実で大切な未来があるわけですが、赤の他人がそこまで声援を送るものかなあ、何で連帯しているのだろう、と考えたときに、彼女が彼女を取り巻く「しがらみ」に絡め取られるのではなく、それを「のりこなす」姿に人々が共感しているのかなあ、と思ったりするのです。

弱者は受け身で言うこときいてりゃいいんだ、と言いたいのではなく、ポンと頭一つ飛び出すことは、そういうことをされても言い返さないで、やっちゃったことは周囲が黙って認める(そして淡々と事後処理が見えないところでなされてしまう)風潮がある社会では、実は安易な振る舞いなのではないか、という疑念がある。)

こうした「のりこなし」肯定論が当該研究を行った著者自身の立場なのか、その研究を紹介の価値ありと判断して紹介文を綴っている日本人論者の立場なのか、そこを切り分けることは、私にはまだできませんが、

社会学、とりわけ、現代文化を論じる社会学にはやたらと「のりこなす」の語が出てくるようでして、なんだか自家用車・マイカーがデフォルトで、公共交通機関に縛られているのは不当な隷属状態であるかのように考える人たちばっかりなのだろうか、と思ってしまったのでした。

なるほど「のりこなす」を是とするマイカー的世界観は、都市の郊外に住んでロードサイドの景観の変化を嘆きつつ、今や車なしでは生きていくことができないと言われている「地方」の人とも話が合いますし、「現代社会」では一番ツブシが効くかもしれませんね。

痴人の愛 (中公文庫)

痴人の愛 (中公文庫)

キーワードは「のりこなし」なのだとすると、河合譲治に馬乗りになって、男を「のりこなす」カフェの女給のナオミが都市のポピュラー文化の原風景だ、ということになって、文学部人間にもわかりやすそうではありますが。
増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在 (ちくま文庫)

増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在 (ちくま文庫)

そして私は、目が悪いから車の運転は不可能ですし、自家用車を維持する金はないし、信号や標識を守って整然と運転するなど、想像するだけで身震いするほど嫌なので、現在の社会学的世界観とは、極めて相性が悪いのかもしれないなあ、私は「社会学的弱者」なんだなあ、と思ったのでした。

万国の公共交通機関利用者よ、立ちあがれ、社会学帝国主義粉砕!(笑)

(……というのは挑発的すぎるとしても、それほど「世渡り」が上手ではなくて、でも、所定の理論や仮説に照らしたときに意味をもちうる現象をすくい上げる、という形があり得るのではないかという気がします。「社会問題」というのはそういうことのような気がしますし。

イケてる人たちがネタ合戦で盛り上がるゲームみたいのは、好きな人は好きだろうけれど、ちょっと嫌かな、と。)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

その意味でも、ご自身は流山(←新選組!の近藤勇が官軍に捕らえられた場所ではないですか!)から筑波大時代はマイカー通勤していらっしゃったらしいのですが、本書の調査のためにつくばエクスプレスの各駅で降りて周囲を歩いた、という柔軟なスタンスがなんだか読んでいて嬉しかった。