エッセイの文体

学校というゆりかごからストレートにひとつの会社に入って、ずっとそこで暮らす人を「社会人」と呼ぶのは、もしかすると、変なのではないだろうか? だってその人は、「社会」を知らないわけでしょ。

問題は、場や組織から身を引きはがしたところに「私」を立たせることができるかどうか、なのだと思う。

一番簡単で、でも、すぐに実態がバレるという意味では一番シビアでもあるのは、エッセイを、ちゃんとしたエッセイの文体で書いてみることだと思う。「私」を隠したままで「事実」を伝える新聞や報道の文体じゃなく、「私」が文のなかで物を考えたり、行動する文体で書くことを試してみることだと思う。

例えば、ほんの一例にすぎないが、ある演奏家の発言を紹介するときに、

「この若さで全曲やるというのは大きなリスクですよね」と小菅自身も認めるこの試み、

というのは、典型的な、(そしてちょっと安直な)匿名の報道の文体だ。

この文には演奏家自身「だけ」が名前入りで登場して、彼女のこの言葉がいつどこで、どういう状況で、演奏家とのどういう関わりのなかで書き手の耳に届いたのか、文のなかに「書き手」自身が出てこない。ちょうど、映画やテレビのカメラが、その場面を撮影しているカメラ自身を撮影することができないように、この文を書きつつある「書き手」の存在を消す文体になっている。「書き手」が消えているからこそ、数多くの記者の持ち寄った情報を効率よく組み合わせる報道機関の「客観報道」に向いており、だから新聞記者はこういう風に書けるようにトレーニングされるのだと思うけれど、でも、エッセイは報道ではない(はず)。

逆に、例えば、

リサイタルを終えた翌日、小菅さんへの取材に同席させてもらった。

と1行添えれば、状況は一挙に変わる。

最初にこの1行を入れて、あとは、

リサイタルを終えた翌日、小菅さんへの取材に同席させてもらった。

ピアニスト小菅優の「ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ全曲演奏会」シリーズがいずみホールでスタートしたのは2010年だった。[……]

と事実の説明を続けたっていいわけですよ。最初の一文が効いて、そのあと彼女の言葉が出てくる(=「私」が彼女の言葉を聞き、知っている)のも不自然ではなくなるし、そのあと、1回目が「(客席は寂しかったけれども)何とも贅沢な一夜となった」という決めの言葉も、通り一遍でない「私の感想」として、言葉が生きる。

(「何とも贅沢な一夜となった」という言葉遣いは、どちらかというと、オッサン系音楽評論家の語彙なので、もし私がエッセイを書くとしたら、別の言い回しを選ぶだろうし、ここは、「マジ、よかったんすよ、これが感動的だったから、もうこれは、ホールとして彼女を応援しよう、何があってもそうすると決めたんです」という風に(書き手自身の)物語が動き出す絶好のポイントになるはずの箇所なので、私だったら、じっくり言葉を選んで、読み流されないように知恵を絞りたいなあ、と思うが、それは、書き手の好みと立場と判断に関わることだと思うので、ここでは詮索しない。)

ただし、こんな風に「私」を文のなかに登場させると、そのあとに出てくる「ホール」とか「音楽事務所」とか「記者」とか「音楽ディレクター」とか、その他の登場人物と「私」との関係も、もはや無色透明ではあり得なくなるので、実情に応じて、ひとつずつ、表現が変わってくることになると思う。そしてそれがどのような物語なのかということは、あなた自身にしか書くことはできない。

そうやって、無色透明の「客観」ではない、私がいる言葉の世界を、自分で言葉を探して組み立てるのが、エッセイを書くということではないかと、少なくとも私はそう思う。

著者名として、自分の名前はもう逃げも隠れもできない形で出ちゃってるんだから、一歩を踏み出すしかないのではないか。

事実関係については、既にあっちこっちに情報が出ているわけで、むしろ、書き手が他の人たちとの関係性を綴る言葉を通して、場の空気を感じ取ることが、「読む楽しみ」の中心になるはずだし。

高望みだろうか。そんなことはないと思うが……。

あの花この花―朝日会館に迎えた世界の芸術家百人 (1977年)

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ホール・スタッフの綴るエッセイって、ほぼそういう形が定番だと思うし……。