「ゲンダイオンガク」な感じとウィーンな感じ

大阪交響楽団がシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲(指揮:下野竜也、Vn:川久保賜紀)をやったのを聴きながら、何とも言えない緊張感に、往年の「ゲンダイオンガク」ってこんな感じだったのかなあ、と思った。

この曲(1940年初演)の日本初演がいつなのか、ちょっとわからないのですが、

  • 第1回「大阪の秋」国際現代音楽祭第1夜(1963年12月21日、御堂会館) ウェーベルン 交響曲 op.21(外山雄三指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団) *日本初演
  • 第2回「大阪の秋」国際現代音楽祭第1夜(1964年10月1日、御堂会館) ストラヴィンスキー エディプス王(演奏会形式、外山雄三指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団、笹田和子ほか) *日本初演

なんていうのを見ると、20世紀前半の音楽のうち、日本では1960年代まで取り上げる機会もなく、条件も整っていなかった大物作品が色々あったんだな、と思う。外山さんが当時気鋭の若手としての大阪フィルに呼ばれたのは、「初演もの」を仕留めるために起用されたニュアンスが多少あったのかもしれませんね。(初物食い、はちょっと意味が違うか、失礼!)

さらに10年後には、

  • 第12回「大阪の秋」国際現代音楽祭第1夜(1974年10月1日、大阪厚生年金会館) シェーンベルク 管弦楽のための変奏曲 op.31(朝比奈隆指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団) *日本初演

なんていうのもあってびっくりする。でかいのが、手つかずでこんな頃まで残っていたんですね。

ちなみに、1961年の20世紀音楽研究所の大阪・御堂会館での第4回現代音楽祭は、初日(1961年8月25日)「アメリカの前衛音楽」でのジョン・ケージ「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(黛敏郎指揮、現代音楽祭管弦楽団[詳細不詳、ピアノは一柳慧]等)がセンセーショナルに語り伝えられていますけれど、最終日3日目(8月27日)は没後10年の「シェーンベルクの夕べ」で、

  • 室内交響曲 op.9 森正指揮、現代音楽祭管弦楽団
  • 地には平和 op.13 森正指揮、大阪放送合唱団
  • 心のしげみ op.20 小沢征爾指揮、増田睦子(ソプラノ)、本荘玲子(チェレスタ)、野畑潤子(ハープ)、高橋悠治(ハーモニウム)
  • ピアノ曲 op.33a/b 高橋悠治
  • ナポレオンへの頌歌 op.41 小沢征爾指揮、伊東武雄(バリトン)、本荘玲子(ピアノ)、現代音楽祭弦楽四重奏団
  • 詩篇 1000の3倍の年 op.50a、デ=プロフンティス op.50b、森正指揮、大阪放送合唱団

初期から晩年までをフォローするプログラムになっています。シェーンベルク(新ウィーン楽派)は、日本ではまだ上演されていない作品が色々あるにしても、「歴史的な評価」は既に定まっている、と思われていたんでしょうね。

音楽は今まさに未来へ向けて急速に「進化」しつつある、と考えられていた時代ですから、「シェーンベルクはもう過去の人」という意識が現在以上に強かったかもしれない。だからこれは、あくまでも「回顧展」なんですね。作曲をやるのにシェーンベルクを知らないなんていうのは「モグリ」だけれど、シェーンベルクの地点で止まってしまう奴は愚鈍だ、みたいな感じでしょうか。

(そんな若干中途半端な距離感だったからこそ、いくつかの曲の日本初演が遅れたんだろうと思います。新ウィーン楽派で重要なのは19世紀を引きずっているシェーンベルクではなく、抽象度の高いウェーベルンだ、と思われていた時代ですし。)

日本戦後音楽史〈上〉戦後から前衛の時代へ 1945‐1973

日本戦後音楽史〈上〉戦後から前衛の時代へ 1945‐1973

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しかし死んで10年しか経っていない、というのは生々しいことですよね。プロコフィエフもまだ没後8年。ストラヴィンスキーもブリテンもショスタコーヴィチもハチャトゥリアンもまだ現役です。ということはつまり、戦後の前衛音楽/実験音楽というのは、先行世代がまだ生きている間に、その人たちに面と向かってケンカを売る緊張感があった、ガチだ、ということだと思います。

そして先行世代が死んでいなくなった1970年代には、前衛/実験のパワーも落ちるわけですから、あの頃のやりすぎなくらいの過激さは、胸を貸してくれる「仮想敵」あってのことだったのかもしれませんね。

(先行世代に反抗して次の世代がのし上がって、それをさらに次の世代がぶっつぶす、みたいなバトルロワイヤルが「進化してる感じ」の実質としてあったわけで、だから当時の作曲家だったら、どこぞのコンサートみたいに、初演を控えた作曲家が、舞台上に呼び出されたプレトークで開口一番「首席指揮者ご就任おめでとうございます」と揉み手な感じに挨拶するような演奏家とのベタベタした関係性は、きっとなかっただろうなあ、と思う。

岩城宏之や小沢征爾は、そんな「最前線の闘士」感あふれる作曲家たちに揉まれて育ったわけだし、大フィルは、1970年代まで、新作を公募して、毎年「ゲンダイオンガク」大会をやり続ける楽団でもあった(今で言えば、いずみシンフォニエッタ大阪の役目を大フィルが兼ねていた)。西村朗は万博へ至るそんな光景を中学・高校時代に見て育った世代であり、下野さんが大フィルの研究生だった頃にはまだ、楽員さんに「大阪の秋」を経験した歴戦の猛者、つまりはシェーンベルクの変奏曲を日本初演した人たちがそろっていたはず……。変化は急激で圧縮されているけれども、時の流れとしては、そこまで「大昔」ではないとも言える。)

曲がった家を作るわけ

曲がった家を作るわけ

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それから半世紀経った2014年には、当時を記憶する人がいる一方で、文化的な環境としては、もはや「ゲンダイオンガク」の周囲の濃密な文脈が消えて、空気は冷えている。しかしそれでも、上演するのが大変な楽譜である事実はまったく変わっていないわけで、いったいどこにモチベーションを求めればいいのか?

お客さんにとっては、「スッペ大会をやるぞ」という看板につられて行ったら、前半がガチのゲンダイオンガクだった、というわけで、振り幅が大きいにも程がある感じに嫌がらせめいたイタズラ心があり、でも、今の大阪響の皆さんだったら、どこまでも食らいついて来るだろうという見通しもあって、ご自身でも勉強したい曲だった、みたいな複合技が、あの気持ちのいい緊張感になったのかなあと思います。

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しかし、スッペの人となりとか、今までまったく考えたこともありませんでしたが、貴族なんですね。先祖はベルギーであるらしく、これも今知りましたが、名前の綴りはスープのSuppeではなくアクサンが入っている。

Franz von Suppé, auch Suppè (* 18. April 1819 in Spalato (Split), Dalmatien; † 21. Mai 1895 in Wien), war ein österreichischer Komponist. Sein bürgerlicher Name lautet Francesco Ezechiele Ermenegildo Cavaliere Suppè-Demelli.

Franz von Suppé – Wikipedia

聴きながら、妙な言い方ですが、とんでもなく身体能力の高い音楽だなあと思いました。

この卓抜なリズム感は乗馬、変わり身が早く狙った獲物を逃さない反射神経は射撃やフェンシングで培ったんじゃなかろうか、そしてそこにイタリア流の本物のベル・カントが身に付いているのだから、これはただの娯楽音楽 U-Musik じゃなく、「リア充」なお坊ちゃんがすくすく育ったのに違いない。非情な言い方になるけれども、これは、シュトラウス一家とは育ちが違う。リヒャルト・シュトラウスとグスタフ・マーラーの違いより、もっと残酷に「文化資本」が違っていそうだと思いました。

で、調べてみたら、1819年生まれだから、世代的にはブラームス(1833年生まれ、シュトラウス2世の才能に惚れ込んでいたことで知られる)より、リスト(1811年生まれ)やワーグナー(1813年生まれ)などのロマン派第1世代に近い。

15歳でイタリアのパドヴァの大学へ入ったのは、当時の上流階級らしい「グランド・ツアー」という感じがしますし、大学で法律を学びながらミラノへオペラ通いをして、ロッシーニやドニゼッティ、まだ無名時代のヴェルディと知り合ったというのですから、めちゃめちゃ恵まれた環境で育った人ですよね。

貴族は世界を大股で歩くことができるから、自然に国際人になる、という感じがします。

(スッペは作曲のほうへ進みましたが、この手の普通に教養が身に付いてしまっている遊び人の貴族のディレッタントは、リブレット作家などとして、しばしばイタリア・オペラの歴史に登場しますよね。まあ、そういうことなんでしょう。)

こんなに大らかに「封建体質」なお大尽遊びの感じがする音楽の前座に、ウィーンとドイツ語とキリスト教を捨てて北米へ亡命したユダヤ人作曲家の妙にウィーンっぽい十二音音楽をやるとは……。

これがウィーンの天国と地獄、なんでしょうねえ。

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天国と地獄つながり、ただそれだけですが、1963年の映画で、敗戦直後の東宝ニューフェース三船敏郎がもはや「青年」ではなく、そうかといって東海道線には「特急こだま」(新幹線にあらず)が走っている絶妙のタイミングで、「ゲンダイオンガク」華やかなりし頃の空気、オッサンたちの1960年代を私は感じます。この線路の先に「明るい未来」がある感じ。それは、「まなざしの地獄」を抱えながらも高卒の若者がワイシャツ姿で会社に通う「勤労者音楽協議会」の時代でもありますね。

この頃の特急列車の映像を見ると胸が締め付けられるような気がするのは、子どもの頃、夏休みごとに一家で大阪から鹿児島(今では新幹線が止まる鹿児島中央駅が、当時は「西鹿児島駅」だった)まで寝台列車で帰省していた記憶を刺激されてしまうのでしょうか。

あっ、そういえば下野竜也さんは鹿児島出身なんだった、だからどう、ということではないけれど。