ビとボとシとポで日本語を鍛える(詩とPoemについて)

美とBeautyがズレるように(ビとボの話→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20131217/p2)、詩とPoemは重なるところと、重ならないところがありそうな気がする。「ポエム」とカタカナ書きされるのが適切であるかもしれない現象は……さらにキメラなのか……。

思い起こせば、美学は文芸学に隣接していて、詩を論じてましたよね。中公の『近代の芸術論』(世界の名著)にもエミール・シュタイガーなどが入っていた。ボ(Beauty)とつぶやいてしまう感慨の話をするときには、ポ(Poem)を引き合いに出すものであって、その感慨はずるずるべったりの悲嘆、詠嘆ではなく、形式化されたものと捉えられていた。

言語芸術というとらえ方があって、その中核は散文ではなく韻文だった。

「うた」がそんな韻文に寄り添っているのは当然だからいいのですが、「絶対音楽」とか、そういうのもまた、「シンフォニーだって立派な韻文だ」という論法で韻文を前提しているのだと思う。

Allegroの冒頭部分はガチャガチャした序曲、最後はノリノリのダンスになるけれど、まんなかのしっとりした緩徐楽章は、表現の内実にしても、折り目正しい造形にしても、どうにか「韻文」として鑑賞に耐える。まずはそんな感じで、あくまでドイツの田舎街でのことではあるけれども、18世紀のシンフォニーが「韻文=Beauty」の準会員扱いしてもらえるようになって、そうこうするうちに、ユゴーが芸術なんだったらベートーヴェンだって芸術だろう、と言い出すリストやベルリオーズのような人がパリにも出てくるようになった。

ワーグナーの音楽劇は韻文と散文を揚棄する、というような言い方も、そのあたりの韻文と散文の関係がごちゃごちゃして、そこが芸術論の争点だった19世紀の状況を踏まえたものですよね。韻文と散文の揚棄、というような物言いがワーグナー自身の発言からちゃんと跡づけられるのか、できあがった作品に接する限りでは、周囲の信奉者たちが叫んだ単なるバズワードではなさそうに思いますが、ともあれ、狙いは見事に当たって、パリでは文学者が真っ先にワーグナーを擁護したのだから、マーケティングの勝利、という気がします。若い頃ユダヤ人マイヤベーアからまともに相手にしてもらえず、シュレザンジェにこき使われた苦労は無駄ではなかった(笑)。

一方、そんなワーグナーのことが気になって仕方がないパリの音楽家たち、サン=サーンスやデュカスが、フランスの作曲家ですからオペラも書くけれども、国民音楽協会に集結して、第三共和政時代が国産のシンフォニーや室内楽を量産する時代になるのは、ドイツへの対抗意識もあるだろうけれども、「芸術とは韻文である」という構えを捨てることができなかったのだと思う。

結果的に、「音楽の散文」(カデンツ和声の関節を外してぐにゅぐにゃの軟体動物みたいなものに変貌した和声の上で、動機群が集合離散しながら舞台上の言葉と状況に絡みつく)の衝撃が「音楽の韻文」を反作用のように強化・再生してしまったわけですから(ダンディは「ソナタ形式とは提示部・再現部という堅牢な支柱の間に展開部を張り広げるシンメトリカルな建築である」と言ったりした、ソナタ形式はこの頃になってようやく「建築的」と把握されるようになった)、ドビュッシーのような人の目には、何やってんだ、と映ったでしょうね。ポエムの氾濫を憂う警世の書が出るのに似た状況が、第三共和政フランスには、あったのかもしれない。

「内容空疎なポエムを新しく作るくらいだったら、古代エジプトのヒエログリフとか、ダンディがやってるグレゴリオ聖歌とか、そういう謎めいた呪文を唱えるほうがよほどいい、はんにゃ〜は〜ら〜み〜た〜♪」

という停滞感がアール・ヌーヴォな秘教的芸術至上主義なのでしょう。

[この件、ここへ続く → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140305 ]

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こんな感じに、ボ(Beauty)とポ(Poem)の話は、19世紀の「音楽芸術」論にも欠かせない西欧流芸術学の王道なのであろうと理解しておりますが、

そんな美学・芸術学に、当節の「ポエム」へ手が届かない感じのもどかしさがあるとしたら(実際あると思いますが)、それは、こういう「ボ」と「ポ」の話とはちょっとズレる、「美(ビ)」と「詩(シ)」(たぶんその向こう側に日本流の「うた」がある)の話というのがあって、そこが未整理だからなのではないだろうか。

つまり、もちろん個々人によって得意・不得意はあって、流行廃りのアクチュアリティの粗密はあるにしても、たぶん、西洋流芸術論に韻文と散文の理論、ポエティクスが欠けているわけではなく、アクセスしようと思えばアクセスできる蓄積・在庫はそれなりに(というより潤沢に)あるのだけれど、日本(語)の美と詩を、それと切り分けながら整理する作業をしてこなかったところに、隙を突いて「ポエム」が繁茂している、とか、そういう感じなのではないだろうか。

ビとボ、シとポの話だけでもややこしいのに、新たに「ポエム」って、どうすりゃいいのか、とりあえず「ポ2.0」とでも名付けておけばいいのか……。

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言語芸術を言語で論じるのは、プログラミング言語のインタープリタやコンパイラをプログラムするのに似たややこしさがあると思いますが、外国のアート(Poem)とその価値(Beauty)を語っている分には、まだ、多少なりともややこしさが軽減される。(C言語でLispのインタープリタを書く、とか、自分自身とは語彙・文法が異なるプログラミング言語を設計するようなもの。情報処理演習で、そういうのは必ずやるみたいですよね。できなきゃプロじゃない。)

日本語で、日本語による言語芸術をどう語るか、おもしろそうな挑戦だと思うんですけどね。

(C言語のコンパイラをC言語で書くことはできる、というか、C言語は、そういうことができるプログラミング言語として設計されているから今も「OSを書く言語」として使われ続けているわけで、自然言語としての日本語に、自国語の言語芸術を記述できるだけのスペックがあるのかどうか、事前に成否を決することはできないけれども、挑戦する価値はあると思う。そういう試みを通じて言語が鍛えられるのだろうと思うし、そのあたりの「言語OSとしての日本語」が「たるんでる」から「ポエム」が蔓延するのだ、とも言えるのではなかろうか。)