偽作

交響曲を一度ライヴで聴いただけだけれど、いかにも耳の聞こえない状態だからこうなった、と思わせる痕跡があちこちにある音楽だったので、代作者(ゴーストライター)がいたとして、「いかにも〜〜風に」でゼロから書いたのだとしたら、偽作の才覚が多少はあるかもしれない。

あるいは、何らかの素材が代作者に提供されて、それをもとに仕上げる仕事だったのか?

今の段階では、そこがわからないので、何とも言えない。

[後日の情報で、図形楽譜風の設計図があり、それに沿って書いたことがわかった。本格的なゴーストライター業だったようだ。ともあれ……、]

偽作は、歴史上、結構あるみたいなんですよね。

伝バッハ、伝ハイドンとか、そこまで古い時代だと、作者名の記されていない手稿譜(あるいは他人の作品)を高値で売ろうとして「バッハ作」「ハイドン作」で流通させる、とかいうことで、その譜面を書いた当人の関知しないところで「偽作」化されたようなのでちょっと事情が違うけれど、

19世紀の終わりから20世紀のはじめ、古い楽器が復興されはじめの頃は、そのうち弾く曲が足りなくなって、演奏家(古い楽器の復元者)が、新たに作った曲にそれらしい作者名をつけたりしていたらしい。

古楽は、基本的に使命感を帯びてまじめな人たちの運動なので、その後そういうニセモノをどんどん排除して進んできたけれど、ラヴェルやクライスラーが「○○風」で遊んだのは、古楽界隈に偽作が横行した風潮を踏まえてのことだと思う。(フランス人やロシア人が「アラビア風」「中国風」に作曲する異国趣味がはやっていた時代でもあるし。)

ただし、こういう「古い音楽の偽造」は、そこで作者に擬せられた人がすでに死んで、死人に口なし、の状態でなされている。生きている人物の作品を偽造すると、(たとえば自分で書いた譜面を「ストラヴィンスキー作曲」「バルトーク作曲」として公表すると)著作権侵害で問題が起きてしまうから、偽作の才覚のある人たちは古い音楽にネタを求めたのだと言えそうに思う。

(異国趣味についても、バルトークがいわゆる「ジプシー音楽」に文句を言ったり、ニッポン人歌手が現場で蝶々夫人の衣装や所作にダメだしするようになり、好き勝手はできなくなっていくし。)

今回は、今伝わっている情報のかぎりでは(というか、これまで「作者」として表に出てきていた人の言動から明らかに)、彼は自分が「作者に擬せられる」ことをよしとしていたわけですよね。

事実と異なる情報を流布することで利益を得たことへの商売上の倫理云々については、色々言う人、言える人、言いたい人、問題を上手にさばける人がいると思うので何も言いませんが、そういう状況下で、耳の聞こえる人が「あたかも耳がきこえないかのように」譜面を書く、という行為がクリエイティヴたり得るか、そこに何らかのフロンティアがあるのか、というのが私は気になる。

「耳の聞こえない人の音楽とはどのようなものなのか」と耳の聞こえる人間たちが思いをはせることは、クリエイティヴなのかどうか。

たぶん、今回の騒動の行く末は、そういう方向には膨らまないだろうなあ、とは思うけれど。

(北米のポピュラー音楽には「オーケストレイター」がいて、ピアノしか弾けなかったガーシュウィンも当初はメロディーメイカーから出発したわけだけれど、たとえば貴志康一も、ベルリンで「作曲」したときには、ウーファの作曲家(=職人的なオーケストレイターだったんじゃないでしょうか)に手伝ってもらっていて、どこまで彼自身が書いたのか、ということがしばしば問題にされる。アイデアはほぼ彼自身のものであるらしいけれど……。20世紀は、今後こまめに調べていくと、「クラシック音楽」もまた、水際までこの種の共作・代作が迫っていた時代だったことがわかってくるかもしれない。19世紀だって、オーケストラの譜面を量産せねばならなかった劇音楽の現場では、「作者」に助手が付くことがあったようだし……。2時間分のオーケストラの譜面をすべて個人が手で書く、というのは、必須とする、そうであらねばならぬ、とするには大変すぎる作業ではあると思う。大半の人は、それでも泣きながら(?)やったみたいですけどね。)