「誠実な創作者」の「不遇感」とオーケストラの雄叫びが乖離するのは不吉な兆候ではないのだろうか?

[追記あり]

事件の他のパーツは、それぞれに出口が見えつつあるように思うのだけれど、ことの発端に「日本の作曲の不遇感」を無条件・解決不能の前提として設定してしまうと、作品とその制作に関わった職人さんの処遇をめぐる話がどんどんこじれていきそうな予感がある。

(そのうち、筒井康隆先生が嗅ぎつけて、「そもそも芸術は悪だ」という、いつものお話を始めそうで怖い。)

そのことを認識しようとしない業界人への罵倒、内ゲバ、とか、そういうのは、なんともはや……。脱デフレスパイラルを目指しませんか。

カーゲル、ほんとに良いか? ということと絡めて考えられないか、と目星をつけてはいるのですが、少し時間がいりそうなので、いまはとりあえずここまで。

本当の経済の話をしよう (ちくま新書)

本当の経済の話をしよう (ちくま新書)

経済学の本は、慣れないのでなかなか先へ進まない。やっとこの本までたどりついた。

[追記]

職人としてのゴーストライターの心理については、江川紹子が会見の感想を書いて、さらにそれへの異論を抱く方もいらっしゃるようですが……、

http://blogs.bizmakoto.jp/bunjin/entry/17351.html

根本のところで、通常のゴーストライターではなく、「ウソ」(全聾ではない人の偽の物語)の片棒を担ぐことを受諾した形ですから、その心理を職人のプロ意識で擁護するだけでは済まないかもしれない……。その「ウソ」がどの程度の範囲に波及するか、そこに想像力が及ばなかったことを含めての「社会性」。

「オトナの事情」でウソの片棒を担がされる立場、というのは、案外幅広い共感を集めることだったりするのだろうか……。

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さらに言うと、

「現代音楽業界」って事実上、今、東京にしか実在しないわけで、新垣氏もそこの一員だったらしい。で、そういう風に作曲家のコミュニティが実際に顔の見える交際範囲と対応している東京の感覚だと、「仲間内ではこれがどういう仕事か阿吽の呼吸でわかるはずだし、たいした騒ぎにはなるまい」と思えるかもしれないけれども、実際には、広島や京都や大阪で(そしておそらく他の都市でも)、そんなこととはつゆ知らぬ人たちが動員されたわけですよね。

人と情報の東京への一極集中によって、ある人たちには見えるけれど、他の人たちには見えていないものが発生している。今回の一件は、そこを突く形で「全国展開」が実現してしまった面がありはしまいか。そうして、「全国」に浸透している気配を察知したら、公共放送も動かざるを得ないわけで……。

「つながり」の社会性と言うけれど、興行は、それとはまた違う原理で、ガガッと動くときは動いてしまう。「昭和」のインフラが今も現役で動いている場面は、東京から見えている以上にきっと多いし、「東京の偉い/有名な先生」のお墨付きは、むしろ、そういうところでこそ効いてしまうような気がする。

佐村河内は、伝えられるところでは「矢沢永吉の再来」というアングルでロック界に売り出されようとした過去があるらしいですから、広島からの上京、地方と東京の関係、広島出身のオレに見えている世界と、東京の人々が見ている世界の落差を何らかの形で意識していた可能性が高いんじゃないだろうか。

(この感じは、吉松隆(東京に生まれ育って、たぶん東京でなければあり得なかった人生を歩んできた人)には対処しきれないものだったかもしれない。オーケストラのヤバい力を熟知していたのは間違いないけれど、それを誰が何のために欲しているか、見通せてはいなかった、あるいは、見たくなかった/知り得ても知りたくなかったところがあったのではないか。「HIROSHIMA」というタイトルにぎょっとしながらも、そのときにはもう、なすすべがなかったと述懐していますが……。)

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そして、創作者がしばしば口にする「聴衆の審判を受ける」という言い方は、そういう風にガガっと動いた、動いてしまった人たちが、この結末をどう受け止め、どのように反応するか、という意味を含んでいるはず。

だから、やっぱり、やっちゃダメな領域へ踏み込んで、弄んではいけないものを弄んだのは否定できない。「作曲の専門家」クラスタ(主として東京の)が一方的に不遇をかこち、被害者の立場を言いつのるわけにはいかないと思う。

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都心でやるとダサいし、仲間たちの手前こっぱずかしいかもしれないけれど、オーケストラをドカドカと鳴らすのは、大砲をぶっぱなしたり、巨大戦艦を大海原に浮かべたり、きのこ雲が大空を覆い尽くしたり、怪獣がビルをなぎ倒すようなパワーをやっぱり持っている。技術力は、そういう風に使えてしまうし、やる奴はマジでやる。その馬力(技術の力と、技術を使いたくて仕方がない人間の欲望)を侮ってはいけない。

サリンを合成した団体を連想する、という指摘は、そのあたりを指しているのではないだろうか。

(そして繰り返しますが、たとえば吹奏楽という場には、そういう風に音をぶっぱなす欲望が渦巻いてもいるし、そういう現場だからこその様々な安全策が、それなりに蓄積されているような気もします。無関係な案件じゃないような気がするのです。(たとえば元吹奏楽少年の某氏とか、一連の贋作発覚騒動に対して、不吉かつマッドな感じにはしゃいでる人たちが実在します。今まさにあなたの隣に忍び寄る狂気の影!))

[さらに追記]

……と考えていくと、

今こそ東京大学大学院教授にして日本音楽学会会長、紫綬褒章を賜った聴覚文化論の大家であらせられる文化資源学者が出動すべきときではないだろうか。

(改めて並べるとすごい肩書きで、鎮護国家の御利益がありそう。)

「お言葉」が新聞文化面に大きく掲載される方向で、弟子のみなさん、今すぐ資料を送ってあげて!

「聴衆も自治体もメディアも、すべてがダメージを受けております。閣下、これは予行演習ではなく実戦です」

みたいな物語ということで。

[以上。週が明けて、首都の次の首長さんが決まった頃には各方面の実務的な処理が本格的に動き出しそうな雰囲気なので、もうわたくしごとき部外者がどさくさまぎれに好き勝手に感想を述べる段階ではなくなるような気がしますので、これで打ち止め。]