楽譜屋にて

母の八尾の家からの帰りに、梅田の楽譜屋、ササヤ書店へ寄る。

私は、必要があってレスピーギのピアノ曲集を買いに行ったのだが、ピアノ曲の「R」の棚には、リムスキー=コルサコフとかアントン&ニコライ・ルビンステイン兄弟など、妙にロシアの作曲家の譜面が多くて(ルーセルやロッシーニもあるけど)、思わず一緒に衝動買いしたくなる。

(棚を眺めていると、ジェフスキーの頭文字はRなのだとわかるわけだが、ジェフスキーの譜面の日本版が何冊も出ている状況は、この空間において、すでにとっても「胡散臭い」(笑)。版元は、いったい何に便乗しようとしているのか、と一瞬思いを巡らしてしまう。)

平日の昼間だが、店内は数人の客がそれぞれに楽譜を「立ち読み」している。

とはいえ、そこにいるのは、「古典的な書法など、音を出さなくてもチョチョイのチョイで書けちゃうよ〜ん」という職業的トレーニングを受けた作曲家というわけではなさそうで、妙齢の、きっとピアノの先生として平穏で幸せな人生が待ち受けているのだろうなあ、と勝手ながら妄想してしまいそうになるお嬢さんなどがいたりする。

「五線紙に音符を書く、なんぞという文化は、もう決定的に古くさい、終わってるね」と言い放つことで何かを言えたような気になってしまったり、「オレはあんな詐欺にはひっかからないよ、えっへん」とか、そういう空中戦とは無縁なところで、ちょうど書店であれやこれやの背表紙を眺めながら時を過ごすように、楽譜屋で「立ち読み」する文化は、今もひっそり息づいている。

ヨーロッパの街中の劇場の裏通りあたりに老舗の音楽ショップがあるように、クラシックのコンサートは、その行き帰りにこういう空間へ立ち寄ることのできる一角でやるのが、生態系としては健全なんだろうなあ、と思う。

そういう意味でも、フェスティバルホールは大事だと思うんだよね。

毎日新聞のビルに入っていたレコード店、ワルツ堂はなくなっちゃったけど、同じ場所に、かわりに丸善・ジュンク堂が入っているから、まあいいのか。

(こういうタッチの作文は、川のイモリに石を投げたり、黄色い果物爆弾をこっそり置いて店を出たりして、オチを付けることになっているのかもしれないけれど、面倒なので、そんなことはしない。)