映画「切腹」で鳴り響くゲンダイオンガクは、オリジナルかどうかではなく、効果が肝要

家にある未見のDVDをいくつか消化。

あの頃映画 「切腹」 [DVD]

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1962年「切腹」の音楽は武満徹で、鶴田錦史の琵琶を使っているわけですが、安保闘争の2年後。非常に通俗的な解釈だとは思うけれども、ストーリー的にも、天下泰平の戦後経済成長でコンクリートの下に生き埋めにされた人々の「声なき声」のようなものとして、こういう音楽が響くわけですね。

ゲンダイオンガクや電子音楽を擁護する人も批判する人も、なぜか「オリジナリティ」を問題にするけど、私は、そんなカビの生えた観念には最初から興味ないです。

「現代音楽調」が一番成功したのは、なんといってもシリアスだったりホラータッチだったりする劇伴だと思う。作曲家は怒るだろうけれども、「効果音」として使えるし、こういう「効果音」を求める時代でもあったのでしょう。

武満徹は、亡くなった早坂文雄の無念に自分の鬱屈を重ね合わせた「弦楽のレクイエム」が事実上のデビュー作だし、有名になって海外に友人がたくさんできたあと晩年は、次から次へと友人・知人の追悼曲の注文に応じているし、一生喪に服して、死霊が憑依した「声なき声」を書き続けた人だと思う。少なくとも「作者というキャラとしての武満徹」はそういう人だった。

(90年代に一番元気良く書き続けることのできた西村朗も、選ぶ題材はほぼ常にスピリチュアル。)

そういう全盛期のゲンダイオンガクの役割というか働きを改めて目の当たりにすると、やっぱり、こういうのを指示書で新たに書け、と誰かに代筆させるほうもさせるほうだし、書けと言われて書く方も書く方だと思わざるを得ない。

ビジネスライクに注文主との契約であれば、とか、そういうのもあるだろうけれど、

なんと申しましょうか、

不謹慎ですね。

(プロになるための修行の一環として、音大の作曲コースで「戦後日本の現代音楽様式による室内楽」とか、そういう課題が出ることがあるのかもしれないけれど、それはいってみれば、葬儀屋が研修で模擬の葬式をやるようなものだから、そういう練習が職業上必要ではあるかもしれないけれど、こっそりやって、外へ持ち出さないようにしないと、罰が当たりそう。人前に気軽にそういうのを持ち出すのは、私用で霊柩車を乗り回すような感じがする。

とはいえ、「6歳の子どもにシェーンベルクを弾かせることの是非」は、「期待」や「ピエロ」やゲオルゲ歌曲集を意味もわからず子どもに暗唱させるのはさすがに無茶だと思うけれど、op.25は、第一次大戦中ほとんど何も書けなくなってしまったシェーンベルクが、戦後前向きに再出発しようと十二音に期待をかけて書いた組曲だと思うので、ありえないことではないかもしれないのではないか。「十二音音楽を聴いて育った子どもの耳は無調になるだろうか?」とグールドが発言していたかと思いますが、無調アレルギーじゃない子どもを育てたい、と考える指導者がいても、(自分がそうなりたいとは思わないけれど)そこまで騒ぐことではないんじゃないか。むしろ、ものには教える順序がある、と批判するときに想定しているその「順序」が、ほんとに適切かどうか、疑うくらいの心の迷いが批判する側にあってもいいんじゃないだろうか。

事実、既に今の大学生くらいの年代だと、別に20世紀の音楽をそれほど特別だとわけへだてしていない子が少なくなさそうだし、今の音環境で普通に育ったらそうなるんじゃないか。クラシック音楽中心で、「美しい調性音楽」以外は受け付けない、という風に育った子どものほうが、むしろあとで苦労しそうな気がします。

だから、クラシック音楽じゃない音楽(もしくは音とのつきあいかた)がごく普通に身の回りにありふれている、という現実と、歴史上の一時代の様式としての「ザ・ゲンダイオンガク」の使用上の注意は、別のレイヤーの話だと思う。

「ザ・ゲンダイオンガク」の使用上の注意は、お葬式でご詠歌を唱える習慣のある地域で、子どもがみだりにご詠歌を歌うとオトナたちから怒られる、というのに近い話だと思う。自分が信仰・宗教に帰依するかどうかとは別に、そういう風習が今も生きている、という現実への敬意は持つべきだ。人づきあいのイロハとして。)