コルンゴルトというゴースト

どちらを向いて歌うか、ということ以上に大切なのは、相手の言葉を聞いているかどうか、舞台上でコミュニケーションが成立している(ように見える)かどうか、ということで、その点で1日目と2日目は、随分、舞台の「温度」が違ったと思います。

で、いずれにしても、たとえば、割合わかりやすい手法だとは思いますが、第1幕で1回、第3幕で1回、作品をとおして都合2回だけ、マリーの絵(でかい!)とマリエッタとパウルが、まるで月蝕や日蝕のように縦一直線に並ぶ瞬間があって、このポジションのときに決定的なことが起きるというように、演出言語が抽象的というか象徴的で、舞台を俯瞰して全体を監督する視線が強烈に打ち出されているので、「読み替え」に代表される「オペラのカジュアル化/観客と同じ目線のフラットな芝居」というような最近の風潮にどっぷり浸った感覚で違和感のある・なしを言ってもしゃあないような気がしました。

(もちろん1回目の日蝕=リュートの唄が悪夢のはじまりで、2回目の日蝕、マリエッタのその後の大げんかに発展することになる長台詞が悪夢の終わり。)

そしてこういう、ちょっと懐かしいかもしれない様式化に意味を見いだすかどうか、舞台の「管理責任者」は誰なのか、ということになると、随分と気合いを入れて考えないといけなさそうですね。

日蝕めいた位置に人が立つと、幽霊が出てきたり部屋が水平に移動したり、スモーク炊いてでっかいものが舞台上に隆起したりする。

そしてこういう天変地異が起きると、誰が誰を見ているか、といったマイクロ演技は吹っ飛ぶ。いわば芝居のモード・スタイルが根本から変わる。第2幕でピエロが跋扈するわけですね。今回は、戦後日本のオペラにこの種のスタッフワークを導入して時代を築いたチームが、この手のことが得意な劇場と組んで制作しているわけだから、そんな人たちが日蝕を目撃したら何かのスイッチが入らないはずはない、という解釈でどうか。

ボジョレ・ヌーヴォのおしゃれでたのしいひととき、ロビーでも、あれまあ隣の会話の輪にはこんな人いるやんか、的に視線が飛び交っていましたが(そして初日の私が乗った行きの直通バスは何か妙に業界関係者率が高かったけれど、笑)、私たちがそういう視線の戯れに興じることができるのは、めちゃめちゃ縦社会な工事現場のオジサンたちの肉体労働のおかげ。常に生命の危険と背中合わせの人たちは、こじゃれたスピリチュアルとは違う水準で信心深い。太陽とか月とか崇拝しちゃうんですよ。

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そんなことよりも、たぶん、字幕の言葉が率直で強い(誉めてます)せいでもあると思いますが、このオペラは、異常なくらい言葉と音楽が密着しているんですね。「洪水」という言葉が出ると、さっと、それらしい音になる等々。

弁護士から音楽評論家に転身したパパと一緒に台本を作ったそうですが、台本の主導権はどっちにあったのだろうか。

ほとんどのアイデアは本人が出した、というのであれば、台本も書けて作曲もできて、ほんとに天才でございますわねえ、でいいのですが、23歳でこないに周到なプロットを組み立てられるものやろか、と思わないではない。

そして、主にパパが(まるで優勝請負人のコーチがフィギュアスケートの選手の女の子の演技プランを組み立てるように)息子を売り出すのにぴったりの台本を書いたのだとしたら、これってつまり、台本がどこをどう作曲するかの「指示書」になっているってことだよなあ、と思ったんですよね。

台本が、ここはプッチーニ風にして、ここから先は「7つのヴェールの踊り」でいきなさい、等々というパパから息子へのアドヴァイスになっている可能性はないのかしら。

そしてパパの指示書を真正面に受け止めて、場合によっては頭の硬いパパにこっそり反抗するかのような最新のアイデアも入れながら分厚いスコアを書き上げたときに、息子は「これで勝ったと思った」(@新垣隆)みたいな(笑)。

これだと、コルンゴルトは、オペラを書いていた頃から、「与えられた枠」にぴったりはまるように音楽を書いているという意味では、のちの映画音楽を書くときと基本的な創作姿勢に違いがなかったことになるかもしれない。

コルンゴルトの音楽は、どうも、言葉と音楽の関係がスムーズでシームレスすぎる。「後腐れ」がなさすぎる気がするんですよね。それは、ひょっとすると「自我」がない生まれながらのゴーストだからだったりするんじゃないだろうか。

ゴースト Gespenster の語は劇中にも出てきますし、台本作者は長らく偽名が使われて、誰が作ったのか真相が伏せられていたそうですが、そんなことより、コルンゴルト自身が問題なのではないか。この奇妙な手応えのなさは「若さ」とは違うと思う。このオペラは、手際が良すぎる。

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今回は、齢80歳を超える翁が、最近世間に跋扈しておるコルンゴルトというゴーストを、あたかも天岩戸の神話であるかの如き日蝕の儀式で「除霊」する舞台であった。

だから儀式の締めとして、すべてが終わったあとに、侍女が蝋燭を手にひとりたたずむわけですね。(タイミングは2日目に改善されて、ばっちり決まった。)