20世紀のヴァイオリン協奏曲の日本初演データ

[追記あり]

こっちの話に戻って来ました。

N響が「2014年3月1日現在の調査で判明している」過去の演奏記録をPDFで公開してくれているのを発見。ありがたい。

http://www.nhkso.or.jp/library/archive/index.php

これによると、オイストラフは1955年の来日で3月18日日比谷公会堂でエッシュバッハー指揮N響と共演して(告別コンサートと銘打たれたとの証言あり、未確認)、プロコフィエフの1番とハチャトゥリアン(1940年に自身が初演した曲)を弾いている。このデータが正確だとしたら、どちらも日本初演になりそうなのだが、この理解で合っているだろうか?

仮面舞踏会~ハチャトゥリアン自作自演集~

仮面舞踏会~ハチャトゥリアン自作自演集~

ハチャトゥリアンとオイストラフがこの曲をレコーディングしたのが1954年らしく、初来日はその翌年。いいタイミングっぽいですね。

(その後ハチャトゥリアンは1963年来日時にレオニート・コーガンの独奏、読売日響で自作協奏曲を指揮したらしく、上田仁指揮、東京交響楽団が1959年5月9日、日比谷公会堂でヴァレリー・クリモフの独奏でプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏したらしいのだが、これらは再演ということになりそうだ。)

[→追記:ハチャトゥリアンの協奏曲は、渡辺茂夫の評伝によると1954年7月25日に塚原哲夫の指揮する塚原管弦楽団の旗揚げ第1回演奏会というのがあって、ここで演奏されたのが日本初演になるらしい。評伝には山根銀二の批評も引用されていますね。

渡辺茂夫はこの2ヶ月後、1954年9月29日、グルリット指揮、東京フィルハーモニー交響楽団(評伝に東京交響楽団となるのは間違い)第25回定期演奏会、日比谷公会堂でバルトークの協奏曲(第2番)を弾き、これがこの曲の日本初演(同団の年史でも確認)。

プロコフィエフは上記オイストラフとN響の1954年3月18日の演奏会が初演と思われます。『東京交響楽団50年の歩み』という1996年にまとめられた冊子は、秋山邦晴を介したこの楽団と日本の作曲家たちの関係が興味深いですが、最後に出ている東京交響楽団日本初演曲リストは、現在の情報に照らすと、いくつか訂正の余地が出てきてしまうようですね。]

関連して、辻久子が1955年12月に上田仁指揮、東京交響楽団定期演奏会でハチャトゥリアンを弾き、この年の毎日音楽賞を受けたという情報があるのだが、現在確認中。

[→追記:とりあえず、1955年12月4日、宝塚歌劇場で上田仁指揮、東京交響楽団の演奏会がある。辻久子がハチャトゥリアン「ヴァイオリン協奏曲」を演奏したことが判明。ほかにモーツァルト「交響曲第41番」、プロコフィエフ「キージェ中尉」。この前後に辻久子が東京などでもこの曲を弾いたかどうかは不明。]

[→追記2:やはりこの12月4日の公演の成果に対して辻久子は毎日音楽賞を得たらしい。調べると、この年の審査員には、同公演について関西音楽新聞に批評を書いた張源祥ほか関西の評論家が名を連ねており、この年の毎日音楽賞は、辻のほか、ソプラノの樋本栄、ピアノの内田耔子と、関西の音楽家が選ばれている。同賞でこれは初めてのことだったらしい。1955/56年頃には「関西楽壇」に注目する流れがあったようです。]

ショスタコーヴィチの協奏曲(1955年にオイストラフが初演)については、1957年1月17日、上田仁指揮、東京交響楽団が日比谷公会堂で初演したとの情報があり、この時の独奏者も辻久子だったのではないかと思われるのだが、確認中。

[→追記:記録類を確認すると、東京交響楽団第83回定期演奏会、1957年1月17日、上田仁指揮、辻久子独奏で、大木英子「雪のふるさと」、ショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲」(日本初演)、デュティユー「交響曲第1番」(日本初演)で間違いなさそうですね。]

辻久子に関しては、1976年3月16日、福村芳一指揮、京都市交響楽団第183回定期演奏会でエルガーのヴァイオリン協奏曲を日本初演。これは京響30年史で確認した。プログラムは黛敏郎「饗宴」、エルガー「ヴァイオリン協奏曲」、ドヴォルザーク「交響曲第9番」。

団体の公演記録は、立派な団体になるほど威信にかけてデータを整備しようとするので比較的捕捉しやすいけれど、個人の音楽活動は偶然まとまって何かが残っていないとどうしようもない。そしてコンチェルトは、個人であるところのスターが団体を串刺しして自由に移動しながら公演するところに妙味があるわけだから、あとから足跡を再構成するのが面白くもあり、大変でもあるところなのですね。周囲があることないこと喧伝したり、その影響もあって本人や関係者の記憶が歪みやすいところもあるので、その意味でも波乱含みに妙味のある分野ということになるでしょうか。

協奏曲の歴史はやっぱり難物。吹奏楽の目星がついて一段落と思ったら、一難去ってまた一難でございます。小岩信治さんがコンチェルトの話をあれだけきれいにまとめたのは、改めてすごかったんだと思う。

(ついでに、ちょっとシャドウボクシングさせてもらうが(笑)、大久保賢だったら「消えてしまった演奏は消えるにまかせればいいではないか、すばらしいものはすばらしいし、どれほど正確なデータを積み重ねてもダメなものがすばらしくなったりはしないのだから、どうでもいい!」と叫びそうだが、そのような「記憶の歴史」を歴史のなかにちゃんと位置づけるためにも、データから確定できることとそれぞれの「記憶」がどれくらい一致して、どれくらいズレたり飛翔しているか、見ておかないとしょうがないのだよ。

でもそれは、「現代音楽の歴史」が作曲家の偉い先生の言い分を鵜呑みにして記録するだけの仕事ではなくなったということだから、いいことだと思う。そして大久保くんは誤解しているようだが、長木さんは、色々なしがらみを受け止める満身創痍なサンドバック状態になりながらも現代音楽の語り方を次の段階へ進めたちょうつがいのような仕事をしたんじゃないかと私は思います。)