脱音響主義

2年に一度ずつ音楽美学の講義をやらせていただく機会があって、自分の考えが少しずつ変わっていくことで、同じ話でも景色が変わるというか、説明の仕方を変えたくなってしまう。

「音楽専用ホール」の時代はおそらくもう終わりつつある、という思いが今は強いわけですが、それは、脱音響主義ということだと思うわけです。音響学的に上手に説明できる状態を保つことに、少なくとも私は、あまり積極的な興味が持てない。

で、そういう立場で考え直すと、例の中世のムシカの話が違って見えてくるように思うんですよね。

中世のムシカの議論はピュタゴラスの数比論を援用するわけですが、中世のムシカは、神・絶対者を最上位に据えた規範に現実を合わせていくようなトップダウン、ピュタゴラスの議論は、少なくともそれを説明する伝承においては現実に沿った法則を見つけていくボトムアップになっている。

「世界は数だ」と信じていたピュタゴラス派は、12:9:8:6 というように、シンプルな比率(1:2、2:3、3:4)で表現できる音の組み合わせに調和があると考えた。で、有名な鍛冶屋の話がそうであるように、このお話は、現実に鳴っている音がどうしてきれいなのか調べてみたら、そこに数比の法則がありました、という「発見」のストーリーで伝承されている。

でも、「発見」のストーリーがもたらす知見に沿って音階を定義して、これを五線譜(当初はネウマ譜)のシステムの根幹に据えて、記譜できる(=理論で説明できる)音だけを使って歌う、ということになると、もはやそこでは、規範に現実(声や耳)を合わせ始めていることになる。

そうして、規範に無理なく身を沿わせることができるようになると、むしろその状態が普通に思えてくる。「第二の自然」というやつですね。

こういう説明の仕方は別に目新しいものではないけれど、「発見」と「規範化」と「第二の自然」の違いを意識したほうがいいように思うのは、いわゆる音響学の自然倍音の仮説と、波形の編集・合成といった手法によって音を操作する近頃の技術の関係にも類似の事情があるように思うからです。

周期的な波を無数の正弦波に分解するフーリエの数学的な手法を音響分析に適用してみたところ、人間の耳が音高を特定できると感じる音は、その音高に相当する正弦波を基音とし、倍音(周波数が基音の整数倍/周期が整数分の1であるような正弦波)を多く/強く含む傾向があるらしいことがわかった。これは一種の「発見」の物語です。

ちょうどピュタゴラス派が数比に調和をみたように、音響学は、人間の耳に周期波動を正弦波に分解して感知する能力があって、そのような聴覚は、自然倍音をクリアであると知覚し、そうではない上音成分の多い音を不明瞭なノイズと知覚するらしいと想定している。ピュタゴラスの説が数学と人間の感覚・知覚を串刺にして、その上に形而上学を建ててしまうように、音響学の自然倍音説は、物理と知覚を架橋しようとする自然哲学の「仮説」ですよね、この段階では。

でも、自然倍音を多く含むような楽器と奏法を考案したり、正弦波への分解/正弦波の合成という処理で音響を操作・編集する技術を実用化するとなると、これはもう、自然倍音説を規範に格上げしたも同然になる。「音楽専用ホール」の「いい音響」というやつは、(自然倍音説だけじゃないけれど)数々の物理と知覚を架橋する壮大な仮説群を、これが真実だとデモンストレートする大伽藍のようなものです。

それは、人為と無縁に存続している自然の法則の産物というより、中世やルネサンスの複雑精緻なポリフォニーに近い気がします。

音響学が数学と手を携えて自然を分析・解析する物理の一領域なのだとしたら、「いい音響」を追い求める「音楽専用ホール」は、音響主義の神殿だ。

で、複雑精緻な中世・ルネサンスのポリフォニーの時代が終わったように、音響主義の時代にも、いつか、終わりが来る。

人間の聴覚がフーリエの数学的処理と同等の解析力を備えていると想定するのは、人間が「鳴り響く数比」に調和を見出すと想定するのと同じくらい、感動的ではあるけれど、ホンマかどうか、はっきりしないところが残っていますよね、たぶん。

少なくとも、コンサートやオーディオ・リスニングが、音響の合成・解析能力を極めるための「道場」であったり、音響の効果をシャワーのように浴びる施設であったりするかのような想定は、ひとつの時代を築いたけれども、ちょっとやりすぎだったと思う。もう、方向転換していい頃合いに思えてならない。

「いい音」とか「いい音楽」という観念から、たぶん、ヒトはそう簡単に離れられない。でも、それは音響主義の上に構築せねばならない、というものでもないかもしれない。せっかく手に入れた知見だから、これを捨てるのはもったいない。ピュタゴラスの数比論の上に構築されたポリフォニーには今も存在意義があるのだから、音響主義の成果を全部捨てるのは性急だろうとは思うけれど、こればっかりだと、正直だんだん飽きてくるよね、ということだ。

[そういえば、デュトワの遺産、モントリオール響をケント・ナガノが指揮した演奏会を音響主義的でなく評した文章を今朝書いた。そのうち日経に出るはずです。会場は……、音響主義が原理主義的に過激化していないことで知られる京都コンサートホールでしたね。]