「軍歌は商品だ」

日本の軍歌 国民的音楽の歴史 (幻冬舎新書)

日本の軍歌 国民的音楽の歴史 (幻冬舎新書)

ラーメン(食におけるパッチモンのナショナリズム)と演歌(うたにおけるパッチモンのナショナリズム)の話が売れ筋になるんだったら、その種の消費文化におけるパッチモン・ナショナリズムの本家・総元締めと言うべき軍歌もいけるだろう、ということで、新書市場にこの本が投入された、そういう風に見たらいいのだろうと思う。

軍歌を好戦的右翼と反戦的左翼のイデオロギー対立で論じるのは不毛である。だって軍歌は明治から昭和前期の息の長いエンターテインメントであり、普通に買える「商品」だったのだから、と最後に著者は言い放つので、速水のラーメン本や輪島の演歌本のような先行商品が売れた理由を分析して、その先に出てきたこの本自体が「商品」であることを欲していると考えてさしつかえないと思う。

軍隊という統治機構の側からみたらプロパガンダである行為が、大衆の側からは商品に見えている、という構造ですね。ナショナリズム(「国家=国民」は「幻想の共同体」なのだ、と言われたりもする)の周囲にこのような構図がたくさんあることは、既にラーメンや演歌で読者にはお馴染みなのだから、人殺しという最先端の政治活動のプロパガンダがいかに楽しい商品であり得たか、という話も大丈夫だろう、ということになったようだ。

でも、「ヒトの命のやりとり」は、やっぱりちとマズいのではないだろうか。

軍歌の空白期とされる昭和後期でこれに似た役割を果たしたのは新宗教の教団歌である、という話が案の定出てくるわけですよね。

軍歌とは、「ヒトの命のやりとり」をその遂行者が宣伝し、大衆が娯楽として消費するシステムだ、ということですよ。そして戦時と平時の区別は、「命のやりとり」が暴力によって殺人としてなされるか、宗教として自然死の文化的な意味づけとしてなされるか、その違いがあるだけだ。いずれにせよ、軍歌や教団歌が生まれるのは、実際に人が死ぬ現場に極めて近い場所であるはずです。

「命のやりとり」のエンタメ商品化ということで言うと、人殺しをシミュレーションするゲームの是非、取り扱いに関する議論というのがありますが、これは、実際に人殺しをする/できる機関がプロパガンダとして制作したわけじゃないから、やっぱりちょっと違う。

「自殺マニュアル」を売って良いか、という話とちょっと似ているような気がする。

政治信条と「軍歌」への関心が著者のなかで相対的に自律している、というのであれば、それはそれでいいのかもしれない。でもそれじゃあ、(そこに「軍歌」の是非を一切絡めなくていいから)「お前さんは日本の軍隊についてどう思ってるのですか」と意見を訊いてみたい。だって、それなりに色んな情報を収集していそうだもの。それなりに詳しそうだから、この議論を深めるのに使えそうな人材なのか、確かめてみたくなるのは人情だろう。

速水や輪島に、「あなたは日本における華僑・華人についてどのようにお考えですか」とか、「それじゃあ結局日本人の音楽的アイデンティティとは何なのですか」とか、ベタに質問する人は、なぜだか知らないけれど現れない。その様子を見て、ベタな場に組み込まれる気遣いはないだろうと思ってこういう本を出したのだとしたら、それはちょっと見込み違いの可能性が高いんじゃないか。そんな予感がするのだけれど。