オペラの少子化:読み替え演出は「博物館的」で、好ましく開放的だが「生産」「創造」ではない

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

授業で一章ずつ読んでいる『オペラの運命』がワーグナーに到達。

実はワーグナーの章は、ワーグナーそのものではなく、ワーグナーをワーグナーたらしめた歴史的前提(「王になりたかった男」という強烈なモチベーション)の話と、ワーグナーが次世代に何をもたらしたか、という話しか書いていない。山に喩えれば、登山と下山の話をして山頂の眺望は間接的にしか語らない形になっている。

(歴史の概説という体裁だと、ワーグナーの作品そのものを語るスペースを取れないのは経験上よくわかります。)

で、「下山」=ワーグナーがオペラ史にもたらしたもの、の話は、今読み返すとよくできていて、いわばワーグナーがやった業績は巨大すぎて、3つに分割する形でしかオペラ史はワーグナーを継承できなかった、という風なストーリーになっている。

岡田暁生お得意の「3つのキーワード」であり、曰く、ワーグナー以後、オペラ劇場は神殿か、さもなければ博物館か、さもなければ実験室になった、と言うんですね。

意味するところはだいたい見当が付くと思います。

神殿は、リングやパルジファルのような壮大な神話もしくは神秘劇が世紀転換期にいくつも出てきただけでなく、マーラーのようにコンサートホールを総合芸術の神殿にしてしまう者まで出た件。

博物館は、ワーグナー(とヴェルディ)で遂にオペラが作曲家の一元管理の「作品」となり、以来、名作レパートリーが確立して、劇場は定番・古典を観に行くところになった件。

実験室は、トリスタン和音とか、そういうのが「発明」「発見」「創造」の競争の発火点となり、表現主義と象徴主義・文学オペラ・時事オペラ等々、オペラが前衛の戦場になっちゃった件。

で、授業ではこの際できるだけ「問題含み」なものを見てもらったほうがいいだろうということで、コンヴィチュニーのジークフリートがターザンで、最後はスクリーンに延々とト書きを写すシュトゥットガルトの黄昏を見ていただいて、ワーグナーみたいのが出てくると、ガラガラと色々なものが組み変わってこういうのが出てくのです、と説明したわけですが、

やっぱり、あらすじの説明というような初歩のところからスタートして「読み替え」まで行くと、戸惑いが生じますね。

どう収拾をつければいいか?

で、気がついたのですが、上記の岡田暁生の三題噺、ワーグナー以後のオペラ劇場は「神殿・博物館・実験室」のいずれかだ、という分類のなかで、彼は、オペラの演出が重要視されるようになっていくことを、「実験室」ではなく、「博物館としての歌劇場」の項目に入れているんですね。

つまり演出というのは、古典化・作品化した演目を博物館に展示・陳列するときのディスプレイの問題である、と。

これはなるほどそうかもしれない。博物館・美術館をどう活性化するか、というときに、学芸員さんキュレーターさんは、本当に様々に「見せ方」に知恵を絞りますもんね。

歴史的考証を厳密にやって、古典作品を「その時代」の文脈に埋め込む形で展示することもできるし(先の関西二期会がずっしり重たいコスチュームで「ドン・カルロ」をやったように)、最新のテクノロジーを使った古典の斬新な展示方法というのもありそうだし(映画館への配信とかインターネットのストリミングとかも一応それか)、文脈を異化するような企画展覧会というのもアリですよね。

ポストモダンとか受容美学とか、そういうのに浸ってしまうと、演出家がト書きから自由な舞台を作るのが、何か演劇的にクリエイティヴな行為のように思ってしまいがちだけれど、あれはあくまで、古典作品の展示方法を学芸員が工夫しているその極北なのだ、ということでいいのかもしれない。(三島由紀夫が近代能楽集でやったように台詞まで全部書き直した翻案ではなく、音楽には一切手を付けない、むしろ、音楽が一層面白くなるように工夫する、という「縛り」でやってるゲームみたいなものですしね。)

こういう風な分類はガチガチに近代主義な枠組みではあるけれど、逆に、劇場=博物館というところは、学芸員に攻めの企画をドシドシやらせるくらいの自由度があっていいじゃないか、ということでもある。

たしかに、演出家という職業は、いきなりクリエイター/アーチスト扱いするのも無理がある。「言論が事実を作る」「ジャーナリズムが仕掛ければ、誰でもスターに押し上げられる」のかというと、やっぱり違うのかもしらん。

彼らがやったこと、やりつつあることは劇場にとっても歌手にとっても有益な刺激を与える立派な業績だと思うけれども、読み替えを中心に演出家個人をスター化しよう、みたいな切り口は、やっぱり筋が悪いかもしれませんね。

あれは結局、劇場という博物館を「民主化」しようとする職員さんたちの運動だった。そして「読み替え演出」というのは、歌手も裏方もみんな巻き込む劇場職員の待遇改善運動の芸術化、いってみれば、劇場がその中にアートを展示する器に甘んじるのではなく、劇場自体をアートにしてしまおうということで、だから、ドイツのように、あまり規模の大きくない公立劇場が市民の誇りみたいな土地柄で台頭した。そういうことかもしらん。

だから、劇場が官僚的ではないところほど、あのムーヴメントとは相性がいい、と。

[……そう考えていくと、やっぱりオペラは、というかオペラ「も」、創作・新作の話を改めてちゃんとやらなきゃダメだ。「読み替え演出」に気を取られて、最近、少なくとも関西では、これといった新作上演がないですもんね。

やりまくるけど産まない作らない、というのは、やっぱりマズいかもしれない(笑)。]