ウクライナのコサック、ラズモフスキー家

[追記あり]

ウィーンの音楽好きな貴族事情を調べ始めると面白くて、どんどん脇道へ逸れてしまう。

シレジア地方に所領のあったリヒノフスキー侯爵は皇帝の侍従だから、ウィーンの大物という理解でいいのでしょうか。モーツァルトの伝記にも登場する人なんですね。

ロブコヴィツ侯爵は、ずっとあとでドヴォルザークの生まれた村がロブコヴィツ家の領地だったはずですが、軍人なのに音楽に狂ったんですね。で、母方の叔母が、女官長としてマリー・アントワネットに最後まで従ったランバル公妃だ、という記述がある。(大奥……、麻雀がめちゃくちゃ強かったりするのだろうか(笑)。薄情なポリニャック公爵夫人との対比で、アントワネットの物語でいい人として描かれる女性ですね。甥のフランツも、ベートーヴェンを鷹揚に応援して、リヒノフスキー侯爵みたいに喧嘩別れしたわけでもなく、善良っぽい印象がある。年齢もベートーヴェンと近いし、話が合ったのか?)

ラズモフスキー伯爵はロシアの在ウィーン大使と紹介されますが、父キリル・ラズモフスキーはウクライナのコサックがエカテリーナのロシアに同化されたときの最後の首長(ヘトマン)だったように書いてあったりする。

ウクライナのロシアへの同化のとりまとめ役で、離反されては困るからラズモフスキー家はロシア皇帝から重用された、ということでしょうか。父キリルも息子アンドレイもかなりの教養人だったように思われますが、ロシア/ウクライナ事情は、この頃から既に、なかなか複雑だったようですね。

(シュパンツィヒがウィーンで仕事を失って一時ロシアへ行くのは、やっぱりラズモフスキー家の絡みもあったのでしょうか?)

ニコライ・ガリツィンは、ベートーヴェンの晩年のカルテットとミサ・ソレムニスの関係で伝記にはちょろっと名前が出てくるくらいですが、ロシア有数の古い家のようですね。[追記:リトアニアからモスクワ大公ヴァシーリー1世の宮廷に迎えられてその娘と結婚した George がガリツィン家の始まり、とか、そんなことのようです。]ベートーヴェンにとっては、ウィーンの音楽好きの貴族たちとつきあうのとは、随分話が違いそう。しかし、いきなりこんな途方もない作品を贈られてどう思ったんでしょうねえ。ベートーヴェンが何考えていたのか、ガリツィン側がどう受け止めたのか、どうもよくわからない。ロシアにいたシュパンツィヒは何か情報を持っていそうなものだし、まあ上手く利用すればいいんじゃないの、という感じだったのでしょうか。

[追記]

左岸コサックの出身でサンクト・ペテルブルグの帝室合唱隊で歌っていたオレクシー・ロズモフスキーはその美貌と美声からエリザベータに見初められ、後には秘密裏に女帝と結婚した。[……]オレクシーの弟キリロ・ロズモフスキーは次期ヘトマンとなるべく西欧で教育され、帰国後、一七五〇年に二二歳の若さでヘトマンに就任した。彼は大部分の時間をサンクト・ペテルブルグでの宮廷政治に費やし、[……]首府アルヒフにサンクト・ペテルブルグを見習った小宮廷を作ろうとし、宮殿、英国式庭園、劇場等を作った。

ロシアの政治は君主により一八〇度変わる。[……]一七六三年ヘトマン国家のある者がロズモフスキー家を世襲ヘトマンにするよう請願を出した。女帝[エカテリーナ]はこれを逆手にとってキリロに退任を迫った。[……]一七六四年彼はついに退任せざるをえなくなった。その代わり彼は女帝から広大な領地をもらった。以後ヘトマンは任命されず、キリロ・ロズモフスキーは最後のヘトマンになった。[p.121-123]

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

「ラズモフスキー伯爵」のパパは、ウクライナのコサックの歴史の最後を締めくくるめちゃくちゃ重要な人物ではないですか!!

語られている物語の細部は、ロシア帝国とウクライナのコサックの関係をめぐる微妙な問題を色々含んでいて、別の立場の別の見解がありそうですが、ラズモフスキー家が鍵を握っていたのは間違いない。そしてオランダを祖先の国と思いエグモント伯爵に共感していたに違いないベートーヴェンにしてみれば、ラズモフスキー家は存在自体が生きる伝説みたいなものだったんじゃないでしょうか。

ラズモフスキー四重奏曲は、ウクライナ問題から考え直されていい作品なのかもしれませんね。

(ベートーヴェンのカルテットのことを調べて、イーゴリ公やアレクサンドル・ネフスキーやマゼッパが出てくることになるとは思いもしませんでしたが……。ロシア貴族に歴史あり。)