「終わり」のあとに来るもの

なかなか結構なフィガロの結婚を見たあとで、今は授業の準備のために、ばらの騎士(ウィーンのほうのクライバー)を見直しております。

シュトラウスは、まあぶっちゃけモーツァルトの「パクリ」ですから、我ながら本ネタと照合できる理想的な順序、巡り合わせですが、

筋を付き合わせると、ばらの騎士はフィガロが終わったところ、つまり貴婦人がエロおやじを「許す」ところがオチではなく、その先がある形なんですね。ホフマンスタールの台本は、決して道徳的に誉められない傷のある「旧世代」がお互いを許してシャンシャンではない。

オックス様が万事了解と意気揚々の退場(WSを終えた帰阪みたいなものか(笑))のあと、マリーテレーズも身を引いて、若いカップルが魔笛みたいな二重唱を歌うのだから、「次世代」を祝福するところまで話が進んでいることになる。このオペラは決してロココの先のない空騒ぎではない終わり方になっている。

私たちは、このオペラの初演のあと大戦争になって「西欧の没落」なのを知っているから、このラストの希望を「保守派のきれいごと」に切り下げて、「実現した予言」であるところのマリーテレーズの諦念ばかりを評価しますが、先がわからない状態での態度として考えると、ホフマンスタールとシュトラウスは、必ずしも「後ろ向き」とは言えないかもしれない。

歴史は、当人が前向きのつもりでもそのヴィジョンが外れると駄目判定するわけで、最初から後ろ向きな態度は、歴史(時の流れ)的には、ゼロ査定が普通なのかもしれませんね。

(歴史的に、というだけでなく、世間の常識でも、まあそうだよね。あとは野となれ、みたいのは、いかに煌めいていたとしても、やっぱり困る。)