「失敗したらサヨウナラ」ではない世の中にするために必要なこと

大上段に構えた制度改革を、という考え方もあるだろうが、ミスや間違いが発生したときには、深手を負う前にさらっと訂正する、それはこうじゃないの、と率直に指摘する、というのが基本であろう。

(こういうときに、これは問題解決の「十分条件ではないが、必要条件ではある」などと言う(プチ時事ネタ))

たとえば、こういうの、いいよね、というのを2つ。

その1:伝言ゲームの補正

http://sueme.jugem.jp/?eid=1697

その2:訳書の評価

「そうじゃないだろう」と思ったときに、モヤモヤした感情をイライラから憤りへ育てて、遂には怒りの鉄拳制裁というストーリーを描くか(←これが「エネルギー」の蓄積・爆発というやつだ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150205/p2)、

そうではなくて、こういう風に、違和感を手間暇かけた調査へ解消するか。

人類は、両方を知っている生き物だ。

怒りの爆発という手法に要するエネルギーの総量と、こつこつ調べ物という手法に要するエネルギーの総量はどちらが大きく、どちらが効率的なのかに関する研究(それは経済学なのかゲーム理論なのか?)があるのかどうかは知らないけれど……。

(「見てねっ」と差し出すことでアートワールドに参与する、という言い方、いいですね。『朝比奈隆のオペラの時代』とか、「大阪俗謡による幻想曲」ポケットスコアとか、こういうのは、まさしく、「見てねっ」と差し出された仕事のような気がする。で、それを「なかったこと」にしようとすると、無茶苦茶「エネルギー」を要したりする……のかもしれない。)