資本主義から修道院へ

いと高き貧しさ――修道院規則と生の形式

いと高き貧しさ――修道院規則と生の形式

「剥き出しの生」を通して「宗教としての資本主義」を見てしまった人は、ちょうど初期の多くの宇宙飛行士が宗教家になったのと表裏一体な感じに、ここへたどり着いてしまうのかねえ。

所有なき使用、と申したか(笑)

増田先生、これがいいよ。きっと吉田先生が連れて行ってくれると思うよ!

新たなる布教のステージが今はじまる。

(不用意にこんな言葉を使うべきではないと思いますが、ネオリベラリズムという単語に倣って、ネオカトリシズムの語を書いてしまいたい思いに囚われつつ、ギリシャの次はローマを学ぶ今日この頃。

ちなみに立命館の新・茨木キャンパスは、山奥の修道院とは逆に、市とタッグを組んで、地域に開かれた大学がモットーであるらしい。昨日、駅の近くで散髪したら、ご近所の皆さんの前評判もいいみたいだった。多角経営である。)