孫や曾孫の代まで著作権

著作権保護期間を70年に延長するのは、権利者(とうてい100年は生きることがないヒトという生物)ではなく、権利を半永久的に保持したい企業・団体(いわゆる法人)の論理ではないか。

個人としての権利者の死後、その遺族が70年も著作権を管理し続けるのは、大変過ぎると思います。(これって、1982年に亡くなった大栗裕の著作権が2052年まで延長されるということでしょう。生前の作曲者を知っている人は、ほぼ確実にこの時点では皆無ですよ。どういうモチベーションで、権利を管理せよというのか。)

これは、著作権が生物としての人間の権利の範囲を超えようとしている兆候ではないか。

やめてほしい。死後50年(大栗裕で言えば2032年まであと20年弱)でも色々大変そうなのに。

旧家に嫁いだら法事がめっちゃ大変、というのから類推したら、わかりそうなものだ。

どうしても延長するなら、「相続放棄」の規定とセットにしないと、収拾が付かなくなると思う。

過去(記憶を含めて)を一種の資産とみなす場合には、生産者・所有者による管理の強化・永続ではなく、長期的には共有財のアーカイヴに円滑に移行していくしくみにするのが筋がいいように思う。生命体としての個人であるところの生産者・所有者は、当該物件をアートワールドに投入した当事者なのだから、初期にはイニシアチヴを取るのが妥当だと思うし、経験的にも、短中期的には、生産者・所有者主導のほうが紛争・問題の解決が容易であることが多い。だから生産者・所有者のイニシアチヴすら否定する共産主義は空想的極論だと思うが、それでも彼彼女とその継承者に紐付けられた権利は、長い見通しのなかの要因のひとつと位置づけたほうがいい。時間・段階的な推移を設計するときには、一発解決を焦ってはいけない。

(ましてや演奏団体とか、場所を提供している勧進元なんちゅうのは、生きている間・物体が存続している間は強力だけれども、過去(歴史)の生産者・所有者としての地位すら、もともと危ういわけであって……。マネジメント中心主義と著作権永続の夢は、中間団体の野望という一点で、どこかで野合しているのではなかろうか。)