【修正確認と未解決問題】どうして「1955年版」などと書くのか、ウィキペディア

[タイトルが長すぎて見苦しいので直しました]

1955年版

原典版。譜面には「大阪の祭囃子による幻想曲」と書かれているが、1956年の初演の際のチラシやプログラムは「大阪俗謡による幻想曲」となっており、「大阪の祭囃子による幻想曲」という題は初演前に撤回されている[1][2]。

大阪俗謡による幻想曲 - Wikipedia

改題云々の件は確認しました。

が、さらに言うと、「大阪俗謡による幻想曲」初稿(1956年5月の初演時に用いられた楽譜)は1956年2月末以後に完成したと推定するほうが安全であろうと私は考えています。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150207/p8

で紹介した大栗裕の1956年5月20日発表の文章の続き(上の画像はそこまで載せていない)には次の一節があります。

私の「赤陣」及び二月に宮本政雄氏と関西管楽器協会の特別好意によって演奏された「管楽器と打楽器の為の小組曲」において、日本の音楽に対する私の考え方を幾分盛り込んではみたものの、実際のところ模索しているといった方が当たっていたかも知れない。今度の大阪俗謡(これは大阪の人なら誰もが知っている夏祭の囃子であるが)を主題にした作品を書きながら、私は漸くにして日本音楽の作曲技法に関する種々の問題がやや明確な形となって私の頭に現われ始めた。

この文章は、作品の成立順が、

「赤い陣羽織」(1955年6月初演)→「管楽器と打楽器の為の小組曲」(1956年2月初演)→「大阪俗謡による幻想曲」(1956年5月初演)

であることを示唆しています。

また傍証として言わせていただけば、大栗裕が、ひとつの作品を半年もかけて念入りに推敲した例は、現在のところ、ひとつも見つかっていません。一度書き上げた譜面を、年単位の間隔をおいてリライトする例も極めて少ないです。

1956年5月初演の作品を、(他の仕事が立て込んでいるのに)早々と1955年に書き上げて準備万端、などということは、大栗裕の通常の創作パターンから考えると、ちょっとあり得ない想定であるということです。

(ウィーンやベルリンでの1956年6月の演奏も、最近のビジネスとして整備されたプロオケのように、事前にパート譜などがオケに送付され、ライブラリアンが内容をチェックして用意周到に準備するわけじゃなく、ましてや、「練習当日まで楽譜が間に合わないときには、作曲家が指揮者や演奏者に大失態として土下座しないといけない」などという、どこぞの現代音楽コンサートのようなことはありません。

「大阪俗謡による幻想曲」の演奏譜一式は、5月末に羽田から欧州へ旅立った朝比奈隆が、チャンチキなどの必要な楽器とともに持参したと考えられます。楽譜を何ヶ月も前に早々と完成せねばならない理由は、見当たらないのです。

そして持参したパート譜を配ったその場で、文字通りの「初見」でベルリン・フィルが問題なく見事に通して演奏したから、朝比奈隆は後年、この体験を座談で繰り返し語ったわけです。

20世紀半ばには、「事前に楽譜を渡して予習させてくれないと、演奏の品質は保証できません、そんな曲の演奏は拒否します」とプレイヤーや指揮者が作曲家に詰め寄るような文化は、まだ成立していなかったということです。むしろ、初見だろうが何だろうが、とにかく形にする、というのが、洋の東西を問わず、「ガクタイ」のプライドだったわけ。善し悪しは簡単には言えませんが、20世紀半ばと現在では、プロオケのあり方、演奏の「品質管理」をめぐる思想は随分と変化しています。たぶん変化の最大の要因は、録音で生演奏が繰り返しチェックできるようになったことでしょう。余談ですが。)

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さて、ところが世間には、「大阪俗謡による幻想曲」初稿を

「1955年作曲、1956年初演」

としている文献が少なからずあります。なぜでしょう。

出所ははっきりしています。樋口幸弘さんが1990年代に発表した一連の文章です。

今でも入手が容易なのは以下の2つ。

  • 樋口幸弘 1993 『吹奏楽名曲コレクション31 大栗裕作品集』解説、東芝EMI、TOCZ-9195(大阪市音楽団の大栗裕没後10年記念事業でもあるCD、現在再発売されている)
  • 樋口幸弘 2006 『大栗裕の世界』解説、大阪音楽大学自主製作CD(大阪音楽大学創立90年事業のひとつだったコンサートのライブ録音、現在も大阪音大から購入可、のはず)

実際にはこの前に、樋口幸弘さんが作品表などをまとめた『Band People』1993年3月号の特集「大栗裕の世界」があります。

元大阪市音楽団団員の樋口幸弘さんのこの時期のお仕事は大変重要で、樋口さんが収集した資料・情報があるから、大栗裕について今色々なことがわかるわけですが、今となっては色々修正すべきところがあるのも否定できません。

樋口幸弘さんの文章は、推測の根拠に踏み込んでいないので、どうして「1955年」説を採用したのか、理由は今となってはわかりません。とにかく、彼は、「大阪俗謡による幻想曲」を「1955年作曲」と書き続けました。

そして、彼の記述が(一部の紙の音楽事典を含めて)その後踏襲され、今日に至っています。

でも、物証がない作品の成立年代の推定、というのは、あとから資料や情報が出てくれば出てくるほど精度が上がる性質のものです。

そして、「1956年2月末以後に楽譜を書き上げたであろう」は上記のように一定の論拠を挙げることができますが、「1955年作曲」説を支持する証拠は、今のところ何も見つかっていません。(朝比奈隆のベルリン・フィル演奏会出演が決まったのが1955年なので、大栗裕が朝比奈隆から新作を依頼されたのは同年中である可能性が高いですが、頼まれてすぐに書き始めたかどうか、というのは、別途、調べないと何とも言えません。そしてこの点についても、以前に私は何度か書いていますが、煩雑になるのでここでは省略します。)

ちなみに、戸田直人さんや三宅孝典さんも、このあたりの事情は把握していらっしゃるようで、作曲時期については言及せず、初演1956年5月、ということだけを書いています。現状では、これが安全かもしれませんね。

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バッハでもベートーヴェンでも、決定的な物証がない作品の成立年代の推定は、通常、こんな感じに推論に推論を重ねるのが音楽学の一般的な手続きです。警察の捜査や推理小説の探偵の思考と、やりかたは同じですね。物証等が揃って、立件・告訴できる場合もあるし、証拠不十分で、捜査はしたけれど立件に至らないことも多い。

これは常識で考えてもわかることですが、「ある人物がある行為をやったのは何年何月何日か」なんてことは、自分のことであれ他人のことであれ、正確に特定できるほうがおかしい。

楽譜を書き上げたのはいつか、なんて、本人ですら、あとになったら曖昧ですよ。〆切に追われていたり、音楽のことに夢中になっていたりで、時計を見たりしないでしょう。

ヨーロッパでは、ある時期から、楽譜の最初や最後に書き始めた日時や書き終えた日時を記入する習慣があるようで、大栗裕も、これをしばしばやっていますが、すべての楽譜がそうなっているわけじゃないし、その記述が正確なのか、厳密に言えば、鵜呑みにはできません。

バッハやモーツァルトやベートーヴェンについて、どの曲は何年作曲……、ともれなく記入してある事典や本がありますが、あんなもん、膨大な推測が混じった結果です。

あたり前じゃないですか。

日付の特定という点では、「作曲時期」の申告はあまり信用できない。むしろ、「初演データ」のほうが、プログラムとか新聞報道とか批評とか、物証や目撃情報が残りやすく、日付の信頼性が高い、というのが一般的だと思います。

(そしてこのように特定が困難な「作曲年代」についての推論を、徹底的な情報収集とアクロバティックな技巧を駆使して限界までチューンナップした成果であるが故に、大作曲家の作品目録は、偉大な研究業績として最初の編集者の名前(ケッヘルとかドイッチュとか)とセットで賞賛され、尊重されるわけです。成果をフリーライドでコピペするのは自由だが、この種の実証研究の何がキモなのか、という程度の社会常識は、わきまえてくれ。)

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で、「大阪俗謡による幻想曲 1955年作曲」は、

かつて樋口幸弘氏がそう書いていた、

というだけで、根拠は薄弱、現役でこの説を積極的に支持している人はいないと思います。

さあウィキペディアな皆さん、これはどういう風に処理なさいますか?

(初稿は「1956年初演稿」とでも表示するしかないと、私は思うけどねえ……。)

それと、「画像を見たら信用する」というのは、ネット住民のちょっと可哀想な病理だと私は思っているので、もうこれ以上、証拠提出とかはしません。

(そんなに暇じゃないし、「作曲の年月日」なるものは、「文字や数字を目で確かめる」だけでは確定できない。複数のデータを組み合わせて推論しないと意見や態度を決められない案件ですからね。)

知りたければ、自力で調べなさい。

[追記:しかしもう一回見直してみると、ウィキペディアの項目は、「1955年版」なるものと「1956年版」なるものが並ぶ形になっていて、迷走状態ですねえ……。

ここで「1956年版」と呼ばれている楽譜も、はたして、いつ作成されたのか、はっきりしたタイミングは不明です。

それから、この楽譜は、新しい版を作ったときに破棄されたのではなく、作曲家が誰かに貸して戻ってこなくて紛失したので、仕方なく1970年7月に新たに楽譜を作成した、とする当時の新聞記事が大栗文庫に保管されています。この件は、掲載紙を特定できていないので「確認中」ではありますが、ウィキペディアの記載は、証拠のないことを推測で補いすぎだと思います。]