イベント駆動、「他人から言われるまでやらない」という初期型集合知の限界

それにしても……、

上のエントリーで指摘したような、「推論」を何段階も積み上げなければいけない情報は、ウィキペディアのような集合知の「初期型」には不向きみたいですね。たぶん、どこかで処理しきれなくなるでしょう。情報を現場で取り扱っている方々も、前線のところでは、そのあたり把握してますよね、たぶん。

誰かが文句を言ったら直す、というのは、いわば「反証主義」のイベント駆動な実装と言えるかと思いますが、この設計には限界があると思うんだよね。

手取り足取り、つきっきりで「反証」をウィキペディアちゃんに学習させてあげる奇特な人なんて、はたしてどれだけいるのか。過保護じゃないか(笑)。

人工知能と学習、みたいな最近復活しかかっている話とつながるかもしれない弱みが、ウィキペディアのような集合知の初期型にはありますよね。

でも、こういうのを「真理問題・反証主義の限界、やっぱりプロテスタントよりカトリックの普遍主義のほうがいい」とかいうイデオロギー闘争や、「アクティヴに行動しないのは、日本人の宿痾だ」みたいな俗流文化論に直結しないほうがいいと思う。

イベント駆動というのは、まずは、20世紀後半のコンピュータのインターフェース設計の問題ですよね。

コンピュータを普及させようとしたときに、ご主人様のかゆいところに手が届く、従順でありつつプラス・アルファのレスポンスをする気の効いた召使い、いわゆる「ユーザフレンドリー」というのがスイートスポットだったのでしょう。

そして、イベント駆動の処理を巧妙に組み込むことで、こうした「ユーザフレンドリー」を実装するのが主流になった。

それ以前から模索されていた自立型のAIよりも、こっちのほうがいいんだ、ということで長らく来たのだけれど、どうもここ数年(10年?)くらいで、また潮目が変わりつつある雰囲気ですよね。

(プログラマさんの間では、「実務」の主流である手続き型とは設計思想が異なる関数型と呼ばれるプログラミング言語の面白さが再発見される過程で、プログラミングにおけるイベント駆動処理の「美しくなさ」(Haskellでは全部モナドという面妖な概念に押し込まれていたり、とか)、敢えて露悪的に誇張して言えば、イベント駆動なるものの、苦情処理をバイト・派遣社員に押しつけるかのようにブラックな汚れ仕事感?が認識されるようになったのが転機なのかなあ、という風にも見えますね。)

ウィキペディアの、言われるまで直さない態度への不満は、そのあたりの潮目の変化と関連している気がします。

さあ、どうするウィキペディア。機械学習とかビッグデータの統計処理を導入して、ネオ・ウィキペディアに進化するのか?(笑)