ワシが吹奏楽の演奏会の曲目解説を仕事で書く機会を得てから8年になるが、この間に、吹奏楽の世界も少しずつ変化しておる。なにしろ、今の大学一年生は8年前にはまだ小学生だったのじゃからのう。子どもの成長は早いものよ。
……という風な役割語で書き続けるのは苦しいのでサッサと話を進めますが、
吹奏楽をめぐる情報は、異常なほど急速に整備されている印象があります。
10年前は、「邦人作品」や「新作」について解説を書くために情報を得ようと思うと、楽譜の記載を手がかりにして、CDやら何やらを集めないといけなかった。ネット上には、個人のファンサイトみたいのしかなくて、情報の粗密の差が大きく、色々注意して利用しないと足をすくわれそうな状態だったように記憶しています。(まだまだ、こういう趣味の情報は「ブログ」が主流だったですね。)
それが今は、楽譜出版社のサイトに新譜情報が揃っているし、しばしば作曲者自身の公式サイトがあって、自作のデータや解説を完備していたりする。音源も、なかには権利者が関知しない録音がアップされていることもあるようだけれど、公認の音源や動画に出版社や作曲家がリンクしていたりする。
関連情報も同様で、
「JBA下谷奨励賞受賞」
などという能書きのある作品があって、「下谷って誰だよ、これはレア情報へ食い込む糸口かっ?」と色めき立って検索すると、あっという間に公益社団法人日本吹奏楽指導者協会のプレスリリースにたどりついてしまう。
http://www.jba-honbu.or.jp/syourei.html
※平成20年度、佐村河内 守作曲「吹奏楽のための小品」の下谷奨励賞佳作は取消となりました。
という一行の背後に、実は何らかの「物語」があるんだろうなあ、と一瞬思わないではないけれど、どうもこの「用意周到さ」は、増田聡先生が言う「コピペは一瞬でできる」という技術論とは違う性質のものであるように思えてならない。
まあ、ぶっちゃけ、このスムーズな情報流通を実現しているのは、「子どもたちをサポートしているオトナたち」でしょう。その影が見えないことが逆にその存在を誇示している、と、私には思えます。
吹奏楽は「教養」と言ってしまうのは粗雑すぎるかもしれないけれど、「関連情報の消費込みで営まれている文化」へと方向付けられている。
そしてその方向付けは、創作の動機、作曲時期、初演・委嘱等の情報、出版社名など、ゲットできる項目だけを眺めていると「クラシック音楽風」ではあるけれど、これらの情報がゲットできるルート、これらの情報を誰がどのように発信・管理しているか、というメディアの状況を観察すると、むしろ、商業音楽(ポピュラー音楽)そっくりだと思う。(レコード会社、タレント事務所、そしてタレント本人の公式サイト等々の芸能界システムとほぼ同じしくみが、かわいらしい規模で整備されているように見える。)
さて、そして先日来なんか違和感があるのは、この「クラシック」と「ポップス」のアマルガムみたいな吹奏楽情報空間の性質と関係しているような気がします。
今現役の吹奏楽作曲家は、今時はこんなんだということで状況にスムーズに対応できるだろうけれど、大栗裕みたいに30年以上前に死んでしまった人は、誰かがエージェントとしてありようをアップデートしないと消えてしまうわけですよね。(それが流行の基本の掟だ。)
で、大阪市音楽団とその関係者とかが主としてやってきたわけです。
でも、生前の大栗裕は、なにしろ朝比奈隆グループの主要メンバーですから(笑)、実はむしろ「クラシック音楽」寄りの環境に生きていて、生前の作者に由来するアートワールド系の情報というのも、脈々と存続しているわけです。(大阪音大の大栗文庫は、そのひとつの拠点ではあるかもしれない。)
何が起きているかというと、もう30年も前に死んでしまったおじいちゃんを、死後に強引に「若作り」するだけでは、さすがに限界があるんじゃないか、ということです。
リアルな世の中でも、おじいちゃんおばあちゃんは、孫をかわいがって、中高生に話を合わせて、彼らの天真爛漫ぶりに目を細めたりするけれど、でも、中高生の側だって、バカじゃないんで、学校の同級生とつきあうときと同じようにおじいちゃんおばあちゃんに接したりはしないですよね。
そしてこういうおじいちゃんおばあちゃん風な「昔の音楽家」たちを吹奏楽ワールドへ投入するときに、孫と祖父母を引き合わせる「親」の位置に相当するのが、吹奏楽で生活しているオトナたちだと思うんですよ。
おじいちゃんおばあちゃん(ということは自分たちの「親」)に、孫の都合を一方的に押しつけるのも酷い話だし、そうかといって、おじいちゃんおばあちゃんたちのペースに合わせさせて孫たちに窮屈な思いをさせるのも、(かつてはそういうのが「旧家の風習」としてあったかもしれないけれど)いまどきではないですよね。
ウィキペディアに反映されてしまっている大栗裕の1990年代情報への違和感は、そのあたりの「親・子・孫」三代の関係調整の問題であるように思います。
で、3世代にまたがるからこそ、「歴史」の話になるんだと思う。
吹奏楽ワールドも、そろそろ「歴史」を意識してくれ、という話です。
祖父母と孫は、直接的な利害関係があまりないから、案外すぐに仲良くなったりするもんです。
そして関係がこじれるのは、多くの場合、間に立っている「親」が変に介入したり、彼らなりの事情があって物事・情報をフィルタリングすることに原因があったりする。
「大阪俗謡による幻想曲1955年版」とか、「この作品の初稿は別のタイトルだった」とかいうのは、孫と祖父母を隔てる親のエゴに似ている気がするんですよね(笑)。
大阪市音楽団(3月16日の発表次第ではもはやこの名称ではないかもしれないが)の4月のいずみホールでの演奏会では、このあたりの「三世代問題」が問われそうです。クラシック音楽の「真髄」とか「本質」みたいのをスローガンにしていらっしゃる音楽堂での演奏会ですもんね。