ベルリン・フィルの意義

戦火のマエストロ 近衛秀麿

戦火のマエストロ 近衛秀麿

話のメインはもちろん戦時中のユダヤ人救済(レジスタンス)へのコミットメントだと思うが、ベルリン・フィルを取材して、この設立時から自主運営のオーケストラが、20世紀前半には音楽学校やマネジメントを含めた音楽総合企業になっていたことが具体的に説明されていて興味深い。

貴志康一は社交家で日本の大使館などを巻き込んで色々派手に企画していたようだが、近衛秀麿は現地の「楽壇」により深く食い込んでいる印象がある。

戦後、朝比奈隆が1953/54年の最初の渡欧でベルリン・フィルを重視したのは、単に上手いとか、名門とかいうのではなく、どうすればオーケストラを民間で自主運営できるのか、大阪のオーケストラ運営のお手本にしたんだろうと思う。

(BPOのティンパニーのテーリヒェンを関響に招くなど、楽員の交流もやっています。)

大阪でオーケストラを作っただけじゃなく、マネジメント(梶本)との太いパイプがあったし、音楽学校とも連携しようとしていた。そしてさらにオペラをやって、メディア(関西音楽新聞)も持っていた。総合的にやった(できた)ことが大きかったんだろうと思いますね。

「東アジアのクラシック音楽」は、アイデンティティ・ポリティクスみたいな「心の問題」だけでは片付かない事業だったんだろうと思うな。戦後においても。

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

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