フィルムとテープ:35mm帝国主義とその周辺

カメラの話で、やたらと「35mm換算」という話が出てくると思ったら、映画のフィルムと同じサイズ・規格のフィルムを1コマ35mm幅で使うのが事実上の標準になっていたんですね。単なる私の無知ですが。

(映画のコマと写真のコマは縦横が90度回転しているから、同じ規格のフィルムを使ってもコマのサイズは違うけど、「映像の世紀」なるものは、同じメーカーの同じ品質のフィルムに同じ技術で焼き付けられた光の痕跡を止め絵やパラパラのコマ送りで眺めるコダック帝国主義の時代だったわけですな。)

磁気テープのほうは、6mm(1/4インチ)幅のを民生機だと19cm/sもしくは9.5cm/sで回すのが普通で、プロ仕様の高音質オーディオを求める38cm/sという機械もあるらしい。

で、オープンリールのトラックの切り方は、機械の仕様とも関わり、私が思っていた以上にややこしいらしいのを昨日ようやく教えてもらった。

「録音の世紀」はスコッチ帝国主義と言えるかもしれないけれど、巻物に音響情報を書き込む技術が百家争鳴しているところがちょっと違うといえば違うかもしれない。

カメラ/キャメラのフィルムへの「焼き付け」のところは画一的だった一方、磁気テープはトラックの切り方が技術の焦点だったわけだから、これは、音響再生産技術について「トラック」概念を有望視する論拠になるかもしれない。

(デジタル・レコーディング・スタジオのある大学といえば精華大だが、大阪芸大の音楽工学は、かつて、NHKの技術者を招いて磁気テープ・レコーディングの秘術を教えるところからスタートしたんですよね。)

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あと、大栗裕は自宅に膨大なテープを所持していたが、レコードはあまり持っていなかったらしい。

「複製技術」とおおざっぱに一括される20世紀の新技術群だが、フィルム文化(写真と映画)は磁気テープ文化(録音)と親和的・相関的だが、円盤に溝を刻むレコード文化とはやや遠い。そのような地図を思い描くことができるのではないだろうか。

レコード文化はフェティシズムを拗らせがちであることが知られているが、レコード/CDと違って、フィルムやテープは「動物化」した「データベース消費」に不向きなメディアという気がするんだよね。音盤の仮想データベースの基底には、表面化・表象化されない膨大な録音群を記録したテープ(トラック)の海がある。「動物」たちの「データベース」は、大海に浮かんだ小舟に過ぎないのではないか。

アドルノは晩年に録音への態度を変えた形跡があるというではないか。明示的にはオペラのLPに言及しているらしいが、磁気テープ文化について、アドルノは何か言っていないのだろうか。それとも彼は、そのあたりをあまりよくわかっていなかったのだろうか?