関連して transcription について

transcription を採譜と呼ぶときには、「聞こえ」を「書く」という行為を想定している。「音響」を「書かれた記号」に移し替えるというわけで、まさしく Audible Past が取り扱う案件、ジョナサン・スターンの言い方に倣えば、listening という身体技法の実例のひとつということになりそうだ。

だが、スターンのように listening の現在の姿が19世紀後半以後に形成されたものだと考えるなら、transcription という言葉はそれ以前から存在するのだから、かつては別の行為(別の身体技法)を指していたと想定するのが妥当だろう。

実際、transcription は、タブラチュアを五線譜に書き換える、というような行為、日本語で言えば「転記」を指していたようだ。

(一方、声楽曲を器楽曲に書き直す、というようなメディアの変換については、現行の語法に従って arrangement と呼ぶことにすれば、transcription と arrangement が関連・隣接しながら、指し示す領域が違っていることがはっきりするだろう。)

そしてタブラチュアという言葉が視界に浮上すると、現行の listening に引きよせた transcription 概念=「採譜」は、「奏法譜」という概念と対になっている様子がわかってくる。ジョナサン・スターンによる listening の規定を応用して、採譜とは「音の発生源がどうであるかにかかわらず、どう聞こえるかという効果を問題にする」傾向があり、一方、奏法譜は「どう聞こえるか、という効果にかかわらず、どのように音を発生させるかを問題にしている」というようなことが言えるのかどうか、仮説として詮索してみたくなる。

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ただし、日本語では「奏法譜」vs「採譜」という風にくっきり同じ抽象度で概念を対比できるが、これを英語でどう呼べばいいのか、よくわからない。tablature vs transcription だと、transcription に20世紀固有の用法であるとの注釈(前述)が要るだろうし、tablature のほうも、弦楽器の奏法譜が tablature と呼ばれる理由、言葉の力点は別のところにありそうだ。

tablature は table (tabula) だから、tabula rassa のtabula (文字を刻む石板だろうか)と同じ語から来ているが、水平にしつらえた板 (tabula) の上に食事を並べるように、その曲を構成する音が平面上に並ぶ様子を記述したのが tablature ということだと思う。

比喩的に、スペインやイタリアの皿が食卓にたくさん並んだ会食を連想すると楽しいが、実際には、弦楽器の弦を張った板が tabula と呼ばれているようなので、もっと即物的な話であって、楽器の表面の板 (に張られた弦) をどのように操作するかを記述したのが tablature ということなのでしょう。

数字譜や文字譜全般を tablature と呼ぶのは、もはや弦楽器でもなければ「板」でもないので、概念を抽象的に拡張してしまっていることになる。

tablature vs transcription という対比は、20世紀の楽器楽や民族音楽学 (比較音楽学) のフィルタを通さないと、何の話か理解不能かもしれない。

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一方、tablature との対比で五線譜は staff notation もしくは stave notation と呼ばれるようだが、staff は棹のような長い棒ですね。庭の物干し場のように、棹が平行に並んでいて、同じ高さの音を同じ棹につるすのが staff notation と考えればいいのでしょう。

(通りに面したところに洗濯物を堂々と干すのは、食卓を皿で埋める会食とともにイタリアの風物詩とされているので、このイメージが丁度良いんじゃないかと思う。)

そして stave のほうは梯子だが、バロック以後の周期的な拍子・小節のある楽譜は、5本の棹の間に足をかける板を渡してあるので、まさしく梯子ですね。棹 (staff) と棹をつないで足場=小節縦線 (bar line) を設置する音楽は主として舞踊と結びついているので、梯子 (stave) という比喩は、小節縦線と足 (step) のつながりを示唆する点でも、なかなか良く出来ていると思う。小節縦線こそが、ダンスにおける手がかりならぬ「足がかり」というわけだ。

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ジョナサン・スターンは、聴覚もしくは音響を語る言葉が、視覚を語る言葉ほどすっきり整備されておらず、メタファーまみれでクソである、という風に苛立つわけだが、そこからキリスト教イデオロギー批判(例の連祷)に走るのは性急な八つ当たりだと思う。

音楽を語る言葉は、listening のモダン・ヴァージョンが出てくる前の時代(いわゆる近世)に、いかにも当時の文脈に即して形成されたのではないか。camera obscula が実現するパースペクティヴと、musica tabulatura (などという言葉はないかもしれないが) が織りなす歌と踊りは、同じ時代の現象として、整合的に説明できると想定したほうがいいと思う。

transcription とは「聞こえ」を「書く」ことである、とか、「聞こえ」が確かにそこに実在する(だから、notation は「聞こえ」に忠実なところへ漸近すべし)というのは、オーディオの fidelity と同じくらい20世紀特有のドグマだし、オーディオ・マニアが少数派であるように、そのような意味における transcription マニアは、その最盛期である20世紀においても、少数派であったと見た方がいいと思う。

[付記: 奏譜と聴譜]

上の記事への追加だが、演奏と聴取という対立項を tablature vs transcription という言葉で指し示そうとすると、tablature (弦楽器固有の記譜法) や transcription (転記) という言葉のニュアンスが台無しになりそうなので、tablature の語で指そうとする事柄を演奏譜 notation for player、 transcription の語で指そうとする事柄を聴取譜 notation for listener としてしまえばいいんじゃないか。略して、奏譜と聴譜だ。

ジョナサン・スターンが口と耳の対立ということを言っているが、「話す/歌う」と「(音の出る)道具で遊ぶ」が接続しているのかどうか、接続しているとして、そこに本当にキリスト教イデオロギーがあるのかどうか、というのは、ちゃんと精査しないといけない。(非キリスト教圏にも「歌」や「管弦の遊び」があるのだから、スターンの見立てには、限界があるだろうことは明らかだが。)

このあたりの課題を忘れないためにも、いきなり、口と耳、というところへ行かないほうがいいと思う。

(キリスト教は「口」の宗教だ、というのは、「短い20世紀」が終わった直後にグレゴリオ聖歌や癒やしが流行った90年代のバイアスじゃないかと思われる。)