共鳴という比喩を警戒する

猫に小判、釈迦に説法だとは思うけれど、物理学で言う「共鳴」はかなり特殊な現象で、例えば、管楽器はリードなどの発振体と管内の空気が特定の周波数で共鳴する現象を利用しているが、「音響再生産」の技術との関連で言うと、集音部(マイク)にしても、発音部(スピーカー)にしても、特定の周波数の空気振動(音)と共鳴してしまうと目的を果たさなくなってしまうので、共鳴現象が発生しないように調整するのは、音響エンジニアの基本だと聞いた記憶がある。

もちろん、ヘーゲル(未読だけれど)は共鳴 resonance の語をそのようなのちの物理学の意味で使ってはいないのだろうけれど、一般的には、「共鳴」のような特異な現象に頼ることなく、振動の逐次的な変化を記録できるからこそ、「音響再生産」の技術は挑発的であると受け止められているように思う。楽器というものは、「共鳴」という特殊現象を活用する、いわば、聴覚文化における「選ばれた存在」であり、だからこそ、天才やオリジナリティの概念が支配的だった19世紀の花形であり、「音響再生産」の技術は、そのような特権的な存在以外にも門戸を開く聴覚文化の大衆化現象だ、というようなニュアンスがあると思う。

楽器を使用するタイプの音楽実践においても、「共鳴」が比喩としてどこまで有用か、ということについては議論が分かれる。ハーモニー概念を考えるときに、和音を倍音列や共鳴という物理学の仮説に基礎づけて説明するのは、非歴史的で筋が悪そうだ、というのは、むしろ20世紀の音楽理論の常識と言って良いと思う。

また、「共鳴」のメタファーは、「素晴らしい音楽が感動の輪を広げる」とか、「音楽は国境を越える調和の芸術、平和のシンボルだ」とか、というような同化的な音楽理解と親和的だと思うけれど、同化・共感ベースの音楽実践は、音楽という聴覚文化の限られた領域のなかでも、さらに限定された時代やジャンルでしか通用しない。

あと、織田作之助は、水商売の女性を誘うときに「共鳴せえへんか」と言うのが口癖だったと伝えられている。オダサク個人の口癖だったのか、昭和前期の夜遊びでは、男女の恋仲を「共鳴」と呼ぶ習慣があったのか、私にはわからないが、言葉の趣味の問題として、私には、恋の話をしているわけではあるまいに、男同士で「共鳴」を語り合うのは、メタファーなのだとしても、なんだかホモソーシャルな感じで嫌だなあ、というのがある。

先のエントリーで、「振動」の語を使って「共鳴」の語を採用しなかったのは、そういう理由による。

私は、音が群れるための手段である、というような「動物的」な理解には、少なくとも今は賛同できないし、賛同する理由を見いだすこともできない。