仕掛け人の論理

大塚英志が学生時代に学んだプロップの民話分析を原資にして主張する物語論を、東浩紀は、「仕掛け人」の立ち位置、と形容していたかと思うが、そういうところがあるだろうなあと思う。

民族音楽学からポピュラー音楽論や「新しい音楽学」に波及している旋法分析、サウンドとしてのコード進行の分析にも似たところがあって、音響コンテンツのエフェクトが、作り手の「仕掛け」に受け手がどのように反応するか、という図式で語られる。

読者・聴き手に着目する理論、と言えないことはないけれど、読者・聴き手がコンテンツの制作者との相関でモデリングされていて、かつて「作者」という単数の個体とみられがちだった制作サイドが、複数であったり、システマティックであったりする審級・エージェントに置き換えられたに過ぎないかもしれない。

このモデルで説明できてしまう現象がかなりあるわけだから、説明できることはどんどん説明してしまえばいいと思うし、制作の審級を消去するポストモダンを、理論としては構想できても、そのような状況がそう簡単に全面化するわけではない、ということか。

テクスト論は、別に、ポストモダンの痕跡や予兆をひたすら探す、という作業に終始しなくても、他にもやれることは色々ある、ということでしょうか。

しかし、「仕掛け」を読み解くテクスト論的なアプローチが、文学研究では過剰に増殖しがちな高等遊戯、美術研究では見巧者による啓蒙、音楽研究では一般ピープルの立ち入れない専門家の技術論、という別のポジションに収まりがちなのは、たまたまこの島が歴史的・文化的にそのように編成されているのか、ジャンルやメディアの特性としてモデリングできる何らかの構造の兆候なのか、あるいは、それぞれの分野の声の大きいオピニオンリーダーのキャラの違いに帰着するのか(=たとえば、蓮實重彦と高階秀爾と吉田秀和・柴田南雄コンビの違い、みたいな)。どういうことなのでしょうね。「近代化」がいまなお「未完」なのだとしたら、この島の「上からの啓蒙」もまた work in progress で決着を見ていない、ということか。