うたとヴァイオリンと民族音楽学

徳丸先生は、「近代」をヨーロッパの都市が地域を越える文化を目指す動き、と見ているところがあるようで、そのように考えると、民謡や諸民族の音楽の発見も、都市がその外部へ視野を広げる動きの一環であるという風にきれいに整理することができるようだ。

音楽の「近代」の本命はベートーヴェンのような大規模な器楽合奏ということになるだろうけれど、考えてみれば、ちょうどそのような「近代」の立ち上げ期に、器楽の本格的な自立に先だってオペラが誕生している。(交響曲は、オペラのための建築物であるところの劇場で上演された。)そしてオペラはギリシャ神話の解釈装置だったわけだから、ヨーロッパが地域を越える文化を目指したときに、ギリシャ神話もまた、地中海を越える物語・教養へと再編された、ということなのかもしれない。そして近代的に再編されたギリシャ神話(の上演)に「うた」がビルトインされたわけだ。

ヨーロッパにおける「うた」とは何なのか、と考えたときに、本当にグレゴリオ聖歌から出発していいのか?

オペラという神話劇は、同時に「うた」を再編したとはいえないか。そして例えばヴァイオリンは、そのような、「オペラの意味におけるうた」を奏でることに適した楽器であるがゆえにバロック期に躍進したと言えそうだから、そうすると、ヨーロッパにおいても、やはり器楽は「うた」の影なのかもしれない。

そういう話と関係があるような、ないようなことだが、小泉文夫も徳丸吉彦も幼少からヴァイオリンを弾く人で、柴田南雄も学生オーケストラではチェロを弾いていたんですよね。ピアノでもなければ吹奏楽でもなく、合唱でもない西洋の弦楽器の素養は、「一般音楽学」に向かいつつあるのかもしれない何かを日本人が探り当てるうえで、鍵になったのかもしれない。