査読と口頭コメント

なるほど論文の査読に相当するものを口頭発表について設定するとしたら、コメンテイターですね。

そういえば(東日本等がどうなっているのか知らないが)、西日本支部は例会のすべての発表についてレポーターを置いて支部通信にレポートが掲載される。あれは、いわば書き言葉によるコメンテイターと言えるかもしれない。(もちろん司会者とレポーターは別人。)あと、昔は学会誌に、全国大会のそれぞれの発表の質疑応答の書き起こしが添えられていた。あれを続けると機関誌の編集幹事が過剰労働になるからやめたんだと思うけれど、その結果として、機関誌編集委員会から各発表者に、発表の申し込み書類とは独立して、やたら厳格に書式を指定した学会誌用の発表要旨をいついつまでに提出せよ、という命令書が送りつけられる。

これが現状なわけで、これはどう考えても制度設計を間違えていると思う。

そして一番の問題は、機関誌の査読の現状についてもそうだけれど、学会の運営委員の人たちが、もはや機関誌への投稿や学会発表をやらなくなって久しいものだから、投稿者や発表者がどういう状態に置かれているかということを知らない、気付いていない、ということだと思います。システムが勝手に動いています。しかも、大会運営は大会運営、機関誌は機関誌で、それぞれ勝手なスケジュールで勝手に色々な指令を送りつけてくるものだから、発表者は一向に全体像が見えません。こうしてじわじわと、ベテラン(引退者という原義における)が現役をすりつぶす。

(しかも、ワード書類のサンプルを添付した編集委員会による書式指定は、サンプルに記された著者名から、いつ頃、誰が幹事の時代にこのシステムが組み立てられたのか、ということが丸わかりになっている。幕末から明治の洋楽導入に関して超人的な精度で実証研究を行ったこの方は、どうやら学会幹事としても極めて有能で、後継者たちは、それを何ら変更することなく現在まで踏襲しているようだ。こうして、システムの起源を実証的に検証するための確かな手がかりを残してくれているところは、さすがは実証歴史研究の達人である、と感心するわけだが、いかんせん、このシステムは、パソコンを個人がスタンドアロンで使用していた時代に最適化されすぎていて、ネットワークコンピューティングがカジュアルに普及した現在では、「必要なデータは一度入力したらネットワーク上で適宜再利用できるようにしておけばいいじゃん、ああメンドクサ」と思われても仕方がなさそうだ。というか、私はそう思った。「惰性で前例を踏襲する」という閉じた集団にありがちな行動様式が、せっかくの「伝説の幹事」の仕事を台無しにしている事例だと思います。)

大会に関する情報は、冊子にしなくてもいいから、機関誌とは別に集約してネットで公開したらいいんじゃないか。ポータルサイトに発表要旨と当日の配付資料とコメンテイターのコメントをそれぞれ投稿して、適宜閲覧できるようにする、とか。大会の運営委員や機関誌編集担当者は、このポータルから情報を取ってくれば良い、というような流れにして。

口頭発表を紙のテクストに固定する方法を厳格に定義する、というのは、ナンセンスではなかろうか。音楽を取り扱う学会なのだから、口頭性の取り扱いはエレガントにしましょうよ。

(あらゆる情報を五線譜上に採譜するにはどうすればいいか、みたいな議論が初期の音楽学会機関誌ではなされているが、比較音楽学・民族音楽学はそういう風な五線譜信奉を脱して久しいのに、機関誌編集においては、紙に言葉を書き留めることに関する「完全性」もしくは「客観性」の夢が、かつて東京芸大楽理の教授だった柴田南雄の頃で止まっているかのように思えてしまう。)

学会誌の書評欄は誤植の指摘だけやたら厳格であったり、とか、紙に文字を固定することへのフェティッシュなこだわりがレゾンデートルみたいになってしまうのは、もういいかげん、無理だと思う。おそらくシステムが動き出した時点では実証主義とか楽譜信奉とか、という文化的美学的哲学的な裏付けがいちおうあったのだろうけれど、今ではもう、理不尽なフェティズムだとしか思えない。

(こういう風習との歴史的な距離を適切に確保するためにも、1980年代以後を含む学会史を早急に作成すべきだと思う。学会創設期の人たちは、ほぼみなさん亡くなってしまっているのですから、放置したら、なぜこれがこうなっているのか、わからなくなる。)