日本楽理のエクリチュール

承前。

東京芸大楽理科と音楽之友社が接合することで生成されるに至った「日本楽理のエクリチュール」とでも呼ぶしかない言語実践が、歴史的事象として存在すると思うんですよね。ちょうど、芸大和声に似た機能を果たして、戦後日本には、音楽(主に洋楽)について書き考える、もしくは、音楽(主に洋楽)で書き考える、という行為においては、「日本楽理のエクリチュール」が標準である、そうであらねばならぬ、あってほしい、そうに決まっている、みたいな信念でまとまる集団が、制度に支えられて存続した。

約物の使い方(《》とか)が見分ける指標にはなるけれど、日本楽理固有の発明があるわけではなく、既存の部品を組み合わせて整流するやり方でしかないので、だから、エクリチュールという言い方をするしかない何かなのだけれど、しっかり身についてその外に出ることができない人というのがいたりする。言葉の安定して均質な肌理を達成するために、一言一句に至るまで、使用を認める言葉と認めない言葉を慣習によって選別して、その選別基準と、何をもって安定・均質とみなすか、という判断を習練によって伝承するのが楽理である、という風に見える。そしてそのような安定的な肌理を維持するために、結社・社中としての学会があり、出版社がこれを支える、みたいな構成になっているのだと思う。

外から見ると何かの儀式にしか見えないのだけれど、ごく曖昧に、「学問とはこういうものなのだろう」という俗情で受け流されていて、内実は結構危なっかしいのだけれど、なんとなく存続している。

(日本楽理の習練は、外国文献の輸入翻訳や公共放送の教養教育番組の制作の実務とは相性が良さそうなので、人材育成の場として機能していた側面もありそうだ。)

日本音楽学会史は、そのような「日本楽理のエクリチュール」の盛衰を知る視座になり得ると思う。だって、学会史を記述するために参照されることになるであろう歴史資料群は、まさしく、「日本楽理のエクリチュール」が生成する現場そのものなのだから。

(その意味で、機関誌編集委員会は、査読に関する資料を全部しっかり保管して、ノーベル賞みたいに、50年を過ぎたものから歴史資料として公開する、という風にしたほうがいいかもしれない。そうしないと、今はもう辛うじて儀式としてしか存続していないものへの皆様それぞれの人生を賭けた情熱の核心を後世に伝える手立てがなくなってしまうかもしれませんよ。)