「哲学者」は「すべての市民」に含まれるのか、含まれないのか?

しかし思うのですが、関西に来て結構名の通った学校の先生になったんやったら、一回くらいは観世会館や大槻能楽堂に行ってみるとか、京都コンサートホールやフェスティバルホールに足を運んでみるとか、するもんとちゃうんですかねえ。もう着任から随分時が経っているような気がするけれど……。

「私は生涯、故郷金沢に忠誠を誓う」という感じの大久保賢みたいに、行くことは行くけれど、あとで、「関西のコンサートは誘われれば誘われるほど足が遠のく」と後ろ足で関西に砂をかけて、それで己の自尊心を守る、というのでもいいからさ。

ちなみに、定期演奏会が毎回ほぼ完売という状態をずっと続けている京都市交響楽団の広上淳一は、「すべての京都市民に年に1回は京響を聴いてもらうのが目標だ」と常日頃から言ってますよ。

○○先生や××先生も、たぶん住民票を京都に移した京都市民ですよね。

学会組織としては、関西に住んでいても関東の支部に所属し続ける、みたいなことができるけど、おそらく住民票を関東に置いたままで、住民税をびた一文関西には落としていない、みたいなことにはなっていないですよね。

先生方も、気付いていないかもしれないけれど、地元のオーケストラからラブコールを送られてますよ(笑)。

(そういう「言論」を知ることがポストモダンな思想構築の何かを変えるのか、変えないのか、よーわからんけど、少なくとも、東浩紀の言う「観光」というキーワードは、この奇妙で荒唐無稽かもしれないラブコールをハンドリングするにあたって、凡百の古典注解的現代思想研究より一日の長がありそうに思うのだが、どうなのだろう。)

なお、「21世紀にもなって、たかだか20世紀の思想や音楽に過ぎないものを「現代思想」や「現代音楽」と呼ぶのはおかしいんじゃないか」という議論がそろそろ巻き起こる頃合いのように思いますが(というより、授業で20世紀の思想や文化をどう呼べばいいのか、毎年困りますが)、発想を反転させて、20世紀は同時代を「現代」と呼称した時代なのだから、20世紀の思想=「現代思想」、20世紀の音楽=「現代音楽」でいいんじゃないか、という気がしつつある。ars nova や nuove musiche が、本や楽譜のタイトルを越えて、特定の時代・地域・様式の呼称になったように。