僧侶は僧侶、学者は学者、千葉雅也は千葉雅也

真言密教と禅宗と浄土教は教義も寺・教団の在り方も少しずつ違うけれど、僧侶は僧侶だと思われている。モダンとポストモダンは違うといっても、その程度のことではないか。学者は学者だ。そして「勉強」という概念は、「僧侶の修行」みたいなものだから、特定の宗派の専有物として折伏することではないと思えなくもない。

優先されねばならない宗派・教団の事情・都合があって、「勉強」概念を自らの宗派・教団の理論の枠組で語る、その枠内に見事に収めることが目下の課題である、みたいなことがありうるかもしれないけれど、世間がそれを知りたがる動機は、そこではなかったりするのではないかしら。

千葉雅也『勉強の哲学』は、

勉強のキモさ=ポモのキモさ=千葉雅也のキモさ

という2つの等号で3つの次元を結んでいるが、これは、アイロニーが非意味の決断に至る決断主義ではないだろうか。(蓮實重彦が、柄谷行人『探究』を評したときに、柄谷の「同じである」という性急な断言に決断主義を見いだしたのが思い出される。)

読者は、「勉強はキモい」という主張を、ひょっとするとそうかもしれない、と興味深く拝聴するだろうが、仮にこの主張に同意したとしても、それは「ポモはキモいか否か」というポモ教団の問題への同意であるとはかぎらないし、「千葉雅也はキモいか否か」という固有名をめぐる判断に決着が着いたわけではない。「ポモはキモい」という主張は、勉強がなぜキモいか、を説明するために召喚された作業仮説に過ぎず、「千葉雅也はキモい」という著者の自己認識は、ことのついでに著者がその主張を本書にまぎれこませたエピソードに過ぎない。アイロニーとユーモアを組み合わせて決断主義を回避するとしたら、そういう地点に留まらざるを得ないだろう。ポモ問題と千葉問題(といっても後者は他人が答えを強要される「問題」ではないと思うが)は、この本の売れ行きとは別に、ポモ教団や千葉雅也個人で、この先も、読者に責任転嫁することなく引き受けていただくしかない。主体の複数化というポストモダンなスローガンは、そういう近代主義的な「問題」の切り分けのさらに先の話だろう。

(「キモい千葉」という表象に萌える読者がいるかもしれない一方で、増田聡先生が「千葉はキモくもないしバカでもないじゃねーか」というところで当確を出し渋る、というようなことになっているようだ。3法案の一括審議にこだわるほうが、妥協しない野党っぽくてかっこいいかもしれないが、「勉強はキモい」法案を無事可決させるためには、場合によっては、他の2つの法案を一時的に引っ込める、というような折衝があっていいのではなかろうか。舞台裏での薄暗い「忖度」をそういう表舞台の近代的な駆け引きに置換するのは、マイルド・ヤンキーの仁義に反することなのだろうか。)