21世紀のニッポンのクラシック批評と作品解釈は社会構成主義への反動を目指すのか?

広瀬大介先生がご自身を「評論家」だと認識しているはずはない、批評を所望された場合には、音楽学者としての感想を述べるに留める、という括弧付きで仕事をしていらっしゃるのだろう、と思っていたので、ご自身の発言として、「批評の書き方」を開陳しておられるのを発見して驚いた。

(なるほどそれでは、ライター系評論家と話がかみ合わないわけだ。)

そして一日考えて、広瀬先生は社会構成主義(構築主義)を知らないか、知っていても不同意な超人・21世紀のニーチェなのだろう、という結論に達した。

「音楽評論家」としてはそれでいいかもしれないが、「音楽研究家」として、これほど有力で多くの成果を上げた学説(「作者の意図」という芸術作品の解釈論の解体はこの考え方なしにはあり得なかったはずだ)に反旗を翻して大丈夫なのだろうか、と心配になった。バイエルンのリヒャルト・シュトラウス研究がそのような知的風土で「作者の意図の解釈」というスタンスを今も堅持している、というようなことが、ひょっとするとあり得ないことではないかもしれないけれど、だとしたら、その学派はかなりヤバいのではないだろうか?

(岡田暁生は(orあの岡田暁生ですら?)、留学時代にミュンヘンの音楽学に嫌気がさしてフライブルクのダヌーザーのところへ移ったわけだが……。「政治的ではないことの政治性」というヒットラー時代のドイツの知識人を特徴づけたとされる態度もまた、一枚岩ではないようだ。産経新聞と讀賣新聞は、保守系と言ってもスタンスに違いがある。東京の保守系ライターと保守系学者の差異は、ちょうどこれに対応しているのかもしれない。片山杜秀は「近代日本の右翼思想」の研究を原資にして朝日新聞やFM放送で現代ニッポンをウォッチしているわけだが、どうやら私たちは、そんな風によく整理された参考書には書かれていない「ポストモダン日本の保守思想」を目撃しつつあるのかもしれない。

岡田暁生はもはや半ば引退して好きに遊んでいるし(←生き方としてはむしろこっちのほうがバイエルン人リヒャルト・シュトラウス風ではある)、政治都市東京のクラシック音楽(の「大本営」が強力な体制で日本全土に情報発信する部分)は、もう関西とは完全に別の国の出来事ですなあ。早稲田/アルテス複合体が、関西についてのいいかげんな情報を流布して歯止めがきかないのも無理はないか。)