テクノロジーへの忠誠、あるいは、偶有的社会集団への無関心

手の付けられない幼児が大暴れするかのようにそれなりの存在意義のある社会集団を皮肉な物言いで引っかき回さなくても、

「私はドイツ音楽史やビデオ・ゲーム業界からサンプル・データを収奪して表象文化論を鍛えることに生涯を捧げており、別にドイツ音楽やビデオ・ゲームや日本文化の輸出に精を出す実業界の動向等々と命運を共にしようなどとは夢にも思ったことのない人間なので、LGBTコミュニティからサンプル・データを収奪してコンピュータの機械学習を鍛えようとする行為のいったい何がいけないのか、さっぱり理解できない」

という風に、何かに特化した人間の鬼畜といわれてもこれが私である、という覚悟を正直に発表すれば済むことではないだろうか。

こういう人は、中途半端に名誉を授けたり、年功序列で管理職に抜擢したりしないほうが、当人にとっても周囲にとっても幸福の総量が増えそうだ、と、皆がはやく気付くほうがいいわけだから。

(40代半ばまで思わせぶりな態度を続けて、周りが扱いを決めかねる、というのは、カミングアウトが遅すぎるよ。これまでに、世間があなたにどれだけつぎ込んだと思っているのか。)

【pixiv論文】日本文学研究者が引用について語ってみる - 日比嘉高研究室

技術ではなくヒューマンを相手にしようとすると、「法律の範囲内であれば最大限に自由であってよい、では回らないことがある」という感覚をもたざるを得ない局面が遅かれ速かれ訪れるのではなかろうか。でも、だからこそ保守回帰への自戒警戒、という振り子の反対側の話題が出てくるわけだが。