放送音楽作曲家たちの咀嚼力

大澤壽人が留学から戻って東京と大阪で数度開いた自作自演オーケストラ演奏会の批評を見ると、東京では同業者が新参の洋行帰りの足を引っ張るようなことをして、関西では、耳の悪い評論家が同時代の音楽にお手上げで、「理解できない」としか言えない、という昭和の風景が既にこの頃からはじまっていたことがわかる。

大澤壽人の「神風」協奏曲の初演を批評した吉村一夫は、朝比奈隆と一緒にメッテルに音楽を習った人で、戦後、音楽クリティック・クラブに設立から加わって、関西の音楽評論家のまとめ役のような存在になった。

ベートーヴェンの7番で「指揮がオーケストラの後追いで拍を打っているように見えた」と吉村は指摘するが、こういう現象はアマチュアのオーケストラではしばしば起きる。このケースでは、オケがいわゆる「走る」状態になったのではないかと思う。戦後、京大アマオケ出身の朝比奈隆とその周囲の人たちがヘゲモニーを握った関西のオーケストラ運動では、「走っても、盛り上がればよし」という風潮がなかったとは言えないように思う。吉村の大澤評は、天にツバしているように見えなくもない。(京大オケや朝比奈隆だって似たようなものじゃん、ということです。)

慶応マンドリン出身の服部正が最初から大澤壽人を応援しているのは、若い世代の共感だったのかもしれないし、大澤も服部も、のちに放送音楽に積極的にコミットする。映画や放送の仕事をした人たちのほうが、むしろ同時代の多様な音楽への柔軟な咀嚼力があったのではないか。

このあたりも、電子音楽や実験音響が放送や大衆音楽で活性化する戦後の風景(いまや戦後の音楽を論じて一番元気がいいのは電子音楽の川崎さんと映画音楽の小林さんでしょう)を準備しているように思う。

(せっかく放送業界に入った東条さんがワグネリアンを自称して朝比奈のブルックナーを担ぎ、バイロイトのカストルフ(先に美学会機関誌にとても面白いカストルフ論が出た)を毛嫌いする、というのは、全盛期の放送音楽の進取の気風とは真逆の歩みなんだよねえ……。)

大栗裕も戦後デビュー前に大澤壽人とコンタクトを取ろうとした形跡がある。天王寺商業学校在学中に朝日会館でこうしたコンサートに通って、アルバイトで映画撮影所にもぐりこんだ少年時代の大栗裕は、服部正と同じように大澤壽人に羨望の眼差しを向けていたのではないかと思う。そんな服部と大栗が1950年代から60年代に、東の慶応と西の関学でマンドリン・オーケストラの音楽物語を作ったのは、偶然ではなさそうに思う。

(そういえば、大澤壽人が戦時中に指揮したベートーヴェンの第7番を聴いた思い出を、先日、あるご高齢の紳士からお伺いしました。メッテルを信奉する朝比奈隆とその周辺の人たちからはdisられたけれど、関西の音楽好きの大学生から、大澤壽人は歓迎されていたように思われます。)

天才作曲家 大澤壽人――駆けめぐるボストン・パリ・日本

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