形式論はfundamentalか?

このあたりのことは学生時代に随分考えたのでとても懐かしい気がするし、こういうことを一度徹底的に考えざるを得なかったのは80年代を学生として過ごした世代の巡り合わせだったのだろうと世代論的共感のようなものを覚えますが、

でも今は、そういう風に「自分たちの学生時代の苦労をそのまま語る」というのではダメなんじゃないかと、少なくとも私は思うようになった。

音楽形式論を独立したストーリーにまとめようとすると19世紀をスキップせざるを得ない、というのは、20世紀の「新音楽」が悪しき19世紀を捨てて、「アーリー・ミュージック」や「エスノミュージック」と「現代」を直結しようとする運動で、形式論がそのイデオロギーだったことの裏返しではないかと思う。「ニュー・ミュージコロジー」の論客たちの形式論への批判は、fundamentalというより、この20世紀的な世界観のなかでしか成り立たないなれあいのようなところがあって、それではもうダメなんじゃないかと思うのです。

19世紀をスキップせずに音楽の形式を語ろうとすると、言葉や舞踊やドラマや社交込みの、音楽が自律していない状況での音のありようが問題になる。でも、おそらく、そっちのほうがfundamentalなんだと思います。

ファンダメンタルな楽曲分析入門

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(そういう風に論が進むのかと期待して買ったので(Amazonで間違えて2冊も注文してしまった……)、ちょっと残念でした。19世紀を丸ごと「なかったこと」にしないとストーリーが成立しない形式論は、「現代音楽」というムーヴメントに忠実に寄り添って音楽を語ろうとするとそうなるのだろうけれど、さすがに運動が末期症状を呈しているように思う。現実に依拠して理論を組み立てるのではなく、現実を否認して強引にねじ曲げて運動の綱領を維持しようとしていると言わざるを得ないのではないでしょうか。)

そしてこういうところに絡んでくるのが「フルート奏者(笑)」の奥泉光先生なのですねえ。帯で名前を見てびっくりしたよ。